2008年4月17日木曜日

最近のポール・オースター

 ニューヨーク三部作(『シティ・オブ・グラス』、『幽霊たち』、『鍵のかかった部屋』)で鮮烈なデビューを飾ったポール・オースターは今や押しも押されぬ大作家となった。本国アメリカだけではなく、ヨーロッパ各国、それからもちろん日本でも彼の小説は世界中で読まれている。僕も柴田元幸さんの訳で初めて『幽霊たち』を読んだ時はものすごく面白くて、読み終わってすぐに本屋に走り刊行中だったオースターの翻訳本をとりあえず全部買った。そんなことをしたのはカポーティの短編集『夜の樹』を初めて読んだ時以来で、僕はオースターに対してカポーティと同等の才能の煌きを感じた。これはものすごい作家だ、と少し興奮しながら本屋に走ったのを覚えている。
 でも実を言うと、ニューヨーク三部作以降の作品は、彼の才能は認めつつも、それほど、というか僕が期待したほど、僕を引きつけなかった。もちろん期待が大きすぎたこともあると思う。でも一番の原因は、どの作品も面白いのだけれど、それらの物語に今一つクレジットがないというところにあるのではないだろうか。クレディビリティーは小説において想像以上に重要で、それがどんなに突飛なファンタジーであれ、小説的リアリティーを持たすためには欠かせないものだ。オースターの物語の多くはその話の展開を「偶然」に頼っているのだけれど、多くの場合僕にはその「偶然」がとても不自然に映った。なんだか無理やりだな、という印象が拭いきれなかった。特に名作『ムーンパレス』で起こる強引なほどの偶然は、それが名作なだけに、僕としてはすごく残念だった。もうちょっと上手いやり方があるんじゃないかなと思った。柴田さんがその強引な偶然を「愛の伝達」という文脈で言及されている読んで、それはそれで「なるほど」と思ったけれど、やっぱり読書の楽しみを第一に考えると、ここにはマイナス点が付くと僕は思う。読者をクレディビリティーの点で立ち止まらせてしまうのは、やはり避けるべきことだ。
 そういう意味で『リヴァイアサン』は素晴らしい作品だった。この物語の中でもオースター流の偶然が起こるのだけれど、それが彼の初期作品の中に特徴的だった推理小説的な要素とうまい具合に混ざり合って、とても効果的に機能している。それほど話題になる作品じゃないのかもしれないけれど、僕はここに一つのオースターの成熟が見れると思う。
 それ以降のオースター、映画の世界にのめりこんだりして、暫くの間小説を書かなかった時期がある。そして(僕にとっては)長い沈黙を破って出版されたのが"Timbukutu"、"The Book of Illusion"、"The Oracle Night"、"The Blooklyn Follies"、それからまだ僕は読んでいないけれど"Travels in the Scriptorium"だ。これらの作品に共通しているのは初老の男性が主人公なこと。オースターはこの五作は「枯れた男の五部作」と呼んでいるらしいのだけれど、僕は今のところこれらの作品に以前のような作品としての強さを感じられないでいる。読めばとても面白い、でも正直言ってもう一度読もうとはあまり思わない。読んでいて少しがっかりしたことだってある。
 僕としてはこれらの小説は過渡的段階にあるように思える。これらの小説は傑作ではないけれど、傑作を予感させる作品だ。だから僕はまだ読んでいない"Travels in the Scriptorium"を読もうか読まないかいつも迷ってしまう。また過渡的段階にある作品だったらと思うとあまり買う気がしないし、もし『リヴァイアサン』のようにまた新たな成熟が見れるならと思うとすぐにでも読みたくもある。そして今日も僕はその二つの間で揺れ動きながら、最近ペーパーバック化された"Travels"の前で買うべきか買わないべきかずっと悩んでしまった。
 今年の秋にはまた新作が出版される予定らしい。ほぼ同時期のブルックリン・ブック・フェスティバルにはゲストとして名前を連ねているし、僕としてはそれまでにもう一度彼の作品を読み直して、何が彼(あるいは僕)にとってイシューとなっているのか考えてみたいと思っている。

2008年4月2日水曜日

カート・ヴォネガットの死から1年経って

 カート・ヴォネガットが死んでからもうすぐ1年になる。それは2007年の4月11日で、彼は84歳だった。作家の死というものを一読者がどのように受け止めるべきなのか僕にはよく分からない。でもその死は僕が受け止めた最初の愛読する現役作家の死で、やっぱり僕はショックを受けたし、誤解を恐れずに言うと、興奮すらした。あれほど偉大な作家も死ぬのだ、それも僕が生きている間に。僕が愛読する多くの作家は僕が読み始めた頃には死んでいるか、あるいはまだ現役で作品を発表し続けている。ヴォネガットは掛け値なしに最高の作家で、もちろん作品と作家とは区別して論じられるべきだけれど、それでもそれは一人の偉大なる者の死だった。僕はその時代に立ち会ったのだ。それは今考えても興奮する出来事だと思う。 でもその興奮の原因は僕という偶然的個人に帰するところであって、例えばサガンなんかが死んだ時は僕はそれほど大きな感慨は抱かなかった。
 正直に言うとヴォネガットの後期作品にはそれほど僕は魅力を感じない。だけれど、彼がそのキャリアを確立させた前期作品はそれを補って余りある。いや、本当に最高なんです。特に『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』の二作品には小説の素晴らしさの全てが詰まっていると僕は信じている。彼の作品を多く翻訳している浅倉久志は『タイタンの妖女』のあとがきにヴォネガットについてこんなことを書いている。

 とても話上手なおじさんが、とぼけた口調で面白おかしい物語を聞かせてくれます。どうしようもないほどバカな人間たちの演じる、時にはグロテスクで、時には悲しく、時には美しい、しかしつねに滑稽である物語です。腹をかかえて笑いころげながら、聴き手はいつのまにかしんみりとなにかを考えさせられてしまいます。おじさんは、この世界で人間たちのやらかしているバカな行いに、腹が立って、悲しくてならないけれども、それでいて、そんな人間たちが大好きなのです。(中略)どうしようもなくバカな人間たちの姿を時には誇張したり、時にはいたわりでくるんだりした滑稽な作り話で、聴き手を笑わせながら、その笑いをつうじて、聴き手の心に、ほんの束の間でもいい、人間どうしのつながり、思いやり、といったものがかきたてられたら、とねがっている―

 ヴォネガットの作品の素晴らしい点は、彼の宇宙的に広がる途方もない想像力とニヒリステッィシュな視点、愛すべきユーモアのセンス、そして人間への優しき視線の絶妙な融合とバランスにある。彼の創出する世界はいつも絶望的でありながら、暖かな優しさに包まれている。浅倉久志が言うとおり、読者はその世界に絡め取られながら、不思議な安堵感を覚える、僕たちはバカでどうしようもないけれどそれは間違ったことじゃないんだ、そんな風に感じる。僕たちの存在は小さくて小さくて、どうしようもないぐらい意味がないんだということを確信させられながら、同時にそれでもいいんだと感じさせられる。それは決して人間の愚かしさの、小ささの肯定ではない、赦しなのだ。とてもとても優しい赦しなのだ。ヴォネガットのどうしようもない魅力はそこにある。少なくとも僕はそこに魅了されるし、強く心が締め付けられる思いをする。
 そのヴォネガットが死んでもうすぐ1年が経つ。そして僕は今でも彼の死に対してどのような感想を抱けば良いのか分からないでいる。それでも僕は彼が幾つもの素晴らしい作品を残してくれたことに、極めて個人的に、感謝している。そしていつか彼の作品についてまとまった論文か何かを書ければと願っている。きっとそれはニヒリズムとキリスト教批判の視点からニーチェと彼の関係を追及するものになるだろうけれど、実はそれは彼の作品を楽しむ上で何の意味もないことも分かっている。それを分かっていながら何か恩返しがしたい、僕はこの1年ヴォネガットに対して常々そう思ってきた。
 僕はこれからも彼の作品を何度も再読することになると思う。その度に彼は僕を笑わせてくれるだろうし、赦してくれるだろう。本来作家と読者の関係なんてものには何の意味もない。でもいつかヴォネガットに会えたら言ってみたい言葉が僕には一つある。
 ピース。