夏目漱石の『こころ』は言わずと知れた必読書であり、日本文学の名作中の名作と言って差し支えないだろう。教科書等にも多く取り上げられ、ほとんどの日本人は読んだことがあるのではないかと思う。その『こころ』を久しぶりに読んでみて、ふと不思議に思ったことがある。その名作の導入部は実は、誤解を恐れずに言うならば、ものすごく奇異だ。
『こころ』の導入部は語り手と「先生」との出会いの場面だ。場所は鎌倉。夏で、二人とも海水浴にやってきている。語り手と先生はその鎌倉で出会うのであるが、漱石が与えたその二人の出会いの場面には実はかなりの無理がある。語り手はまだ大学生、彼は毎日のように浜辺で見かけた先生の姿を見守っている。大学生ほどの年齢の男性が、一人の中年の男を毎日のように目で追うのは、それだけで考えてみると、かなり奇妙で不自然だ。一般的な大学生であれば、他に目が行くところはいくらでもある(つまり彼の周りには多くの女性海水浴客がいるはずなのだ)。つまり、それは少々歪んだ同性愛とも解釈しかれない。しかし、この導入部ではそのような解釈が入る余地がない。より正確にいうならば、漱石はそのような解釈がなされないような手立てをしっかりとうっている。
漱石は「先生」以外の海水浴客をただの「黒い頭」として、しかもそれを二度も強調して、読者の目がいく対象から故意に外している。つまり先生以外の海水浴客を不特定多数とすることで、語り手に映る先生の存在を際立たせているのだ。さらに漱石は「先生」が西洋人と一緒にいたという設定を作り、語り手の目が先生に注がれる奇異さを軽減している。しかしながら、鎌倉の海水浴場で一人の若い男性が中年を過ぎた男性を何日間にも渡って目で追うのは不自然であることには変わりない。漱石はそのような不自然さ、奇異さを通り越しても語り手が先生を求める、あるいは求めてしまう姿をこの導入部ではっきりとさせておきたかったのであろう。
だがこの導入部は語り手の先生への興味関心だけでは済まされない。つまり語り手の先生に対する興味関心だけではなく、先生の語り手に対する姿勢をこの小説の導入部は多く示唆している。もちろん、漱石は小説の全体を通して先生の語り手に心を許さない姿を表現し、それは導入部でも変わりはない。しかしこの導入部では同時に先生が「私」を求めている姿も見て取れる。事実関係だけで言っても語り手である「私」に最初に話しかけたのは先生である。もちろんそれだけではない。先生が語り手を求める姿はより能弁に表現されている。この小説が語り手「私」の一人称単数のパースペクティブで書かれているため気づきにくいが、いくら同じ海水浴場とはいえ、この二人が毎日のように遭遇するのはおかしい。なにしろそこには無数の「黒い頭」が存在しているのだ。特定の二人が、毎日のように偶然に出会うことは考えづらい。つまりこの二人の邂逅は、「私」が先生を探しているからだけではなくて、先生が「私」を探しているからこそ起こりうるのだ。
先生こそ誰か語る相手を求めている。誰か信頼できる相手を求めている。だからこそ二人は海水浴場で出会い続けるのだ。そしてその二人の「孤独」はその後に起こる悲劇をすでに予知させるものでもある。
Setting Free the Bears
2009年9月15日火曜日
2008年12月26日金曜日
軍服とタキシード
最近久しぶりにトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を読んだ。ピンチョンを最後に読んで5年は経っているのではないかと思う。前回読んだ時はただ単に苦行をしているような気分ですらあったけれど、今回はちょっと違った。もちろん彼の作品はタフだし、特に英語の原文で読む場合にはかなりの集中力がいる。でもあの読感はやっぱり彼独特だ。ちょっと他では味わえない。彼の小説を読むときは、緊張するし体力を使う。僕が学部生の時、文献講読のゼミでフィヒテの『全知識学の基礎』を読んでいた。その時先生が「フィヒテを読むためには読むほうもそれなりの準備がいる。読むほうもテンションを挙げて、ある意味ではハイにならないと彼にはついていけない」と言っていたけれど、ピンチョンについても同じようなことが言えると思う。ベッドに横になってとか、地下鉄での移動中にとかでは彼の世界には着いていけない。しっかり椅子に座って、なんなら読む前にニンニクを何粒か食べて、鼻息を荒く読むのがピンチョンだ。彼は僕に完全装備の軍服を思い起こさせる。彼の小説は武装している。彼の洞察と知識、それと文学的意図で完全武装している。とてもマッチョな小説だ。それを読み込むのは骨が折れる。読後には独特の疲労感が残る。それは勝負の決闘の疲労だ。読者は完全武装の軍人と一対一でやり合わなければならない。だからこそ読後感は他に変えがたい。もちろん初読ですべてがクリアーになんてならないし、頭の中が?で一杯になったっておかしくない。でも読後に腹の奥に残るズシッとした重量感はピンチョンならではだ。
それを考えると、やっぱりポール・オースターという人はポストモダニスト(こういう用語はあまり好きではないのだけれど便宜的に)としてとても異質なんだなぁと思う。『幽霊たち』のあとがきで柴田元幸さんがオースターを「エレガントな前衛」と称していたけど、本当にそれは稀なことなのだと思い知った。オースターの作品はとても洗練されているし、セクシーさすらある。ピンチョンが完全武装の軍服だとしたら、オースターはパリッとしたタキシードだ。彼の作品には一目で魅了されてしまう。読者(仮に女性の読者だとして)は彼の小説とアッパー・イーストあたりのパーティで出会って、そのセクシーさに打たれ、一緒にマティーニを啜りながら会話を楽しみ、家に帰ってからも素敵な小説だったと思い出に浸るかもしれない。読者にそういった経験をさせるのは間違いなくオースターの魅力の一つだ。でもそれだけがオースター作品の全貌ではない。他の読者はパーティの後、彼の小説と夜を共にするかもしれない。そこで彼女はそのタキシードを少しずつ脱がすだろう。そうするとそのタキシードの下で、彼が武装しているのに気づく。彼女はその知識と洞察、文学的意図を目撃し、体験するだろう。オースター小説を読むという行為は、だからセックスをするのと似ている。読後には高揚感があり、疲労があり、そして痛みが残る。これはやっぱりオースターならではだ。
というような話をアメリカ人女性の友人に話したら、「私は個人的にタキシードより軍服のほうがセクシーだと思うわ」と言われた。この感覚はアメリカ人と日本人と差かなと思っていたけれど、なるほどよくよく考えてみると、戦時の軍服ではなくて正装としての軍服はエレガントですよね。でもピンチョンの場合はもろ戦時の軍服で、顔に泥を塗って、体中に弾薬を巻きつけているイメージです。そういうのはさすがにセクシーとは言いませんよね?
それを考えると、やっぱりポール・オースターという人はポストモダニスト(こういう用語はあまり好きではないのだけれど便宜的に)としてとても異質なんだなぁと思う。『幽霊たち』のあとがきで柴田元幸さんがオースターを「エレガントな前衛」と称していたけど、本当にそれは稀なことなのだと思い知った。オースターの作品はとても洗練されているし、セクシーさすらある。ピンチョンが完全武装の軍服だとしたら、オースターはパリッとしたタキシードだ。彼の作品には一目で魅了されてしまう。読者(仮に女性の読者だとして)は彼の小説とアッパー・イーストあたりのパーティで出会って、そのセクシーさに打たれ、一緒にマティーニを啜りながら会話を楽しみ、家に帰ってからも素敵な小説だったと思い出に浸るかもしれない。読者にそういった経験をさせるのは間違いなくオースターの魅力の一つだ。でもそれだけがオースター作品の全貌ではない。他の読者はパーティの後、彼の小説と夜を共にするかもしれない。そこで彼女はそのタキシードを少しずつ脱がすだろう。そうするとそのタキシードの下で、彼が武装しているのに気づく。彼女はその知識と洞察、文学的意図を目撃し、体験するだろう。オースター小説を読むという行為は、だからセックスをするのと似ている。読後には高揚感があり、疲労があり、そして痛みが残る。これはやっぱりオースターならではだ。
というような話をアメリカ人女性の友人に話したら、「私は個人的にタキシードより軍服のほうがセクシーだと思うわ」と言われた。この感覚はアメリカ人と日本人と差かなと思っていたけれど、なるほどよくよく考えてみると、戦時の軍服ではなくて正装としての軍服はエレガントですよね。でもピンチョンの場合はもろ戦時の軍服で、顔に泥を塗って、体中に弾薬を巻きつけているイメージです。そういうのはさすがにセクシーとは言いませんよね?
2008年4月17日木曜日
最近のポール・オースター
ニューヨーク三部作(『シティ・オブ・グラス』、『幽霊たち』、『鍵のかかった部屋』)で鮮烈なデビューを飾ったポール・オースターは今や押しも押されぬ大作家となった。本国アメリカだけではなく、ヨーロッパ各国、それからもちろん日本でも彼の小説は世界中で読まれている。僕も柴田元幸さんの訳で初めて『幽霊たち』を読んだ時はものすごく面白くて、読み終わってすぐに本屋に走り刊行中だったオースターの翻訳本をとりあえず全部買った。そんなことをしたのはカポーティの短編集『夜の樹』を初めて読んだ時以来で、僕はオースターに対してカポーティと同等の才能の煌きを感じた。これはものすごい作家だ、と少し興奮しながら本屋に走ったのを覚えている。
でも実を言うと、ニューヨーク三部作以降の作品は、彼の才能は認めつつも、それほど、というか僕が期待したほど、僕を引きつけなかった。もちろん期待が大きすぎたこともあると思う。でも一番の原因は、どの作品も面白いのだけれど、それらの物語に今一つクレジットがないというところにあるのではないだろうか。クレディビリティーは小説において想像以上に重要で、それがどんなに突飛なファンタジーであれ、小説的リアリティーを持たすためには欠かせないものだ。オースターの物語の多くはその話の展開を「偶然」に頼っているのだけれど、多くの場合僕にはその「偶然」がとても不自然に映った。なんだか無理やりだな、という印象が拭いきれなかった。特に名作『ムーンパレス』で起こる強引なほどの偶然は、それが名作なだけに、僕としてはすごく残念だった。もうちょっと上手いやり方があるんじゃないかなと思った。柴田さんがその強引な偶然を「愛の伝達」という文脈で言及されている読んで、それはそれで「なるほど」と思ったけれど、やっぱり読書の楽しみを第一に考えると、ここにはマイナス点が付くと僕は思う。読者をクレディビリティーの点で立ち止まらせてしまうのは、やはり避けるべきことだ。
そういう意味で『リヴァイアサン』は素晴らしい作品だった。この物語の中でもオースター流の偶然が起こるのだけれど、それが彼の初期作品の中に特徴的だった推理小説的な要素とうまい具合に混ざり合って、とても効果的に機能している。それほど話題になる作品じゃないのかもしれないけれど、僕はここに一つのオースターの成熟が見れると思う。
それ以降のオースター、映画の世界にのめりこんだりして、暫くの間小説を書かなかった時期がある。そして(僕にとっては)長い沈黙を破って出版されたのが"Timbukutu"、"The Book of Illusion"、"The Oracle Night"、"The Blooklyn Follies"、それからまだ僕は読んでいないけれど"Travels in the Scriptorium"だ。これらの作品に共通しているのは初老の男性が主人公なこと。オースターはこの五作は「枯れた男の五部作」と呼んでいるらしいのだけれど、僕は今のところこれらの作品に以前のような作品としての強さを感じられないでいる。読めばとても面白い、でも正直言ってもう一度読もうとはあまり思わない。読んでいて少しがっかりしたことだってある。
僕としてはこれらの小説は過渡的段階にあるように思える。これらの小説は傑作ではないけれど、傑作を予感させる作品だ。だから僕はまだ読んでいない"Travels in the Scriptorium"を読もうか読まないかいつも迷ってしまう。また過渡的段階にある作品だったらと思うとあまり買う気がしないし、もし『リヴァイアサン』のようにまた新たな成熟が見れるならと思うとすぐにでも読みたくもある。そして今日も僕はその二つの間で揺れ動きながら、最近ペーパーバック化された"Travels"の前で買うべきか買わないべきかずっと悩んでしまった。
今年の秋にはまた新作が出版される予定らしい。ほぼ同時期のブルックリン・ブック・フェスティバルにはゲストとして名前を連ねているし、僕としてはそれまでにもう一度彼の作品を読み直して、何が彼(あるいは僕)にとってイシューとなっているのか考えてみたいと思っている。
でも実を言うと、ニューヨーク三部作以降の作品は、彼の才能は認めつつも、それほど、というか僕が期待したほど、僕を引きつけなかった。もちろん期待が大きすぎたこともあると思う。でも一番の原因は、どの作品も面白いのだけれど、それらの物語に今一つクレジットがないというところにあるのではないだろうか。クレディビリティーは小説において想像以上に重要で、それがどんなに突飛なファンタジーであれ、小説的リアリティーを持たすためには欠かせないものだ。オースターの物語の多くはその話の展開を「偶然」に頼っているのだけれど、多くの場合僕にはその「偶然」がとても不自然に映った。なんだか無理やりだな、という印象が拭いきれなかった。特に名作『ムーンパレス』で起こる強引なほどの偶然は、それが名作なだけに、僕としてはすごく残念だった。もうちょっと上手いやり方があるんじゃないかなと思った。柴田さんがその強引な偶然を「愛の伝達」という文脈で言及されている読んで、それはそれで「なるほど」と思ったけれど、やっぱり読書の楽しみを第一に考えると、ここにはマイナス点が付くと僕は思う。読者をクレディビリティーの点で立ち止まらせてしまうのは、やはり避けるべきことだ。
そういう意味で『リヴァイアサン』は素晴らしい作品だった。この物語の中でもオースター流の偶然が起こるのだけれど、それが彼の初期作品の中に特徴的だった推理小説的な要素とうまい具合に混ざり合って、とても効果的に機能している。それほど話題になる作品じゃないのかもしれないけれど、僕はここに一つのオースターの成熟が見れると思う。
それ以降のオースター、映画の世界にのめりこんだりして、暫くの間小説を書かなかった時期がある。そして(僕にとっては)長い沈黙を破って出版されたのが"Timbukutu"、"The Book of Illusion"、"The Oracle Night"、"The Blooklyn Follies"、それからまだ僕は読んでいないけれど"Travels in the Scriptorium"だ。これらの作品に共通しているのは初老の男性が主人公なこと。オースターはこの五作は「枯れた男の五部作」と呼んでいるらしいのだけれど、僕は今のところこれらの作品に以前のような作品としての強さを感じられないでいる。読めばとても面白い、でも正直言ってもう一度読もうとはあまり思わない。読んでいて少しがっかりしたことだってある。
僕としてはこれらの小説は過渡的段階にあるように思える。これらの小説は傑作ではないけれど、傑作を予感させる作品だ。だから僕はまだ読んでいない"Travels in the Scriptorium"を読もうか読まないかいつも迷ってしまう。また過渡的段階にある作品だったらと思うとあまり買う気がしないし、もし『リヴァイアサン』のようにまた新たな成熟が見れるならと思うとすぐにでも読みたくもある。そして今日も僕はその二つの間で揺れ動きながら、最近ペーパーバック化された"Travels"の前で買うべきか買わないべきかずっと悩んでしまった。
今年の秋にはまた新作が出版される予定らしい。ほぼ同時期のブルックリン・ブック・フェスティバルにはゲストとして名前を連ねているし、僕としてはそれまでにもう一度彼の作品を読み直して、何が彼(あるいは僕)にとってイシューとなっているのか考えてみたいと思っている。
2008年4月2日水曜日
カート・ヴォネガットの死から1年経って
カート・ヴォネガットが死んでからもうすぐ1年になる。それは2007年の4月11日で、彼は84歳だった。作家の死というものを一読者がどのように受け止めるべきなのか僕にはよく分からない。でもその死は僕が受け止めた最初の愛読する現役作家の死で、やっぱり僕はショックを受けたし、誤解を恐れずに言うと、興奮すらした。あれほど偉大な作家も死ぬのだ、それも僕が生きている間に。僕が愛読する多くの作家は僕が読み始めた頃には死んでいるか、あるいはまだ現役で作品を発表し続けている。ヴォネガットは掛け値なしに最高の作家で、もちろん作品と作家とは区別して論じられるべきだけれど、それでもそれは一人の偉大なる者の死だった。僕はその時代に立ち会ったのだ。それは今考えても興奮する出来事だと思う。 でもその興奮の原因は僕という偶然的個人に帰するところであって、例えばサガンなんかが死んだ時は僕はそれほど大きな感慨は抱かなかった。
正直に言うとヴォネガットの後期作品にはそれほど僕は魅力を感じない。だけれど、彼がそのキャリアを確立させた前期作品はそれを補って余りある。いや、本当に最高なんです。特に『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』の二作品には小説の素晴らしさの全てが詰まっていると僕は信じている。彼の作品を多く翻訳している浅倉久志は『タイタンの妖女』のあとがきにヴォネガットについてこんなことを書いている。
とても話上手なおじさんが、とぼけた口調で面白おかしい物語を聞かせてくれます。どうしようもないほどバカな人間たちの演じる、時にはグロテスクで、時には悲しく、時には美しい、しかしつねに滑稽である物語です。腹をかかえて笑いころげながら、聴き手はいつのまにかしんみりとなにかを考えさせられてしまいます。おじさんは、この世界で人間たちのやらかしているバカな行いに、腹が立って、悲しくてならないけれども、それでいて、そんな人間たちが大好きなのです。(中略)どうしようもなくバカな人間たちの姿を時には誇張したり、時にはいたわりでくるんだりした滑稽な作り話で、聴き手を笑わせながら、その笑いをつうじて、聴き手の心に、ほんの束の間でもいい、人間どうしのつながり、思いやり、といったものがかきたてられたら、とねがっている―
ヴォネガットの作品の素晴らしい点は、彼の宇宙的に広がる途方もない想像力とニヒリステッィシュな視点、愛すべきユーモアのセンス、そして人間への優しき視線の絶妙な融合とバランスにある。彼の創出する世界はいつも絶望的でありながら、暖かな優しさに包まれている。浅倉久志が言うとおり、読者はその世界に絡め取られながら、不思議な安堵感を覚える、僕たちはバカでどうしようもないけれどそれは間違ったことじゃないんだ、そんな風に感じる。僕たちの存在は小さくて小さくて、どうしようもないぐらい意味がないんだということを確信させられながら、同時にそれでもいいんだと感じさせられる。それは決して人間の愚かしさの、小ささの肯定ではない、赦しなのだ。とてもとても優しい赦しなのだ。ヴォネガットのどうしようもない魅力はそこにある。少なくとも僕はそこに魅了されるし、強く心が締め付けられる思いをする。
そのヴォネガットが死んでもうすぐ1年が経つ。そして僕は今でも彼の死に対してどのような感想を抱けば良いのか分からないでいる。それでも僕は彼が幾つもの素晴らしい作品を残してくれたことに、極めて個人的に、感謝している。そしていつか彼の作品についてまとまった論文か何かを書ければと願っている。きっとそれはニヒリズムとキリスト教批判の視点からニーチェと彼の関係を追及するものになるだろうけれど、実はそれは彼の作品を楽しむ上で何の意味もないことも分かっている。それを分かっていながら何か恩返しがしたい、僕はこの1年ヴォネガットに対して常々そう思ってきた。
僕はこれからも彼の作品を何度も再読することになると思う。その度に彼は僕を笑わせてくれるだろうし、赦してくれるだろう。本来作家と読者の関係なんてものには何の意味もない。でもいつかヴォネガットに会えたら言ってみたい言葉が僕には一つある。
ピース。
正直に言うとヴォネガットの後期作品にはそれほど僕は魅力を感じない。だけれど、彼がそのキャリアを確立させた前期作品はそれを補って余りある。いや、本当に最高なんです。特に『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』の二作品には小説の素晴らしさの全てが詰まっていると僕は信じている。彼の作品を多く翻訳している浅倉久志は『タイタンの妖女』のあとがきにヴォネガットについてこんなことを書いている。
とても話上手なおじさんが、とぼけた口調で面白おかしい物語を聞かせてくれます。どうしようもないほどバカな人間たちの演じる、時にはグロテスクで、時には悲しく、時には美しい、しかしつねに滑稽である物語です。腹をかかえて笑いころげながら、聴き手はいつのまにかしんみりとなにかを考えさせられてしまいます。おじさんは、この世界で人間たちのやらかしているバカな行いに、腹が立って、悲しくてならないけれども、それでいて、そんな人間たちが大好きなのです。(中略)どうしようもなくバカな人間たちの姿を時には誇張したり、時にはいたわりでくるんだりした滑稽な作り話で、聴き手を笑わせながら、その笑いをつうじて、聴き手の心に、ほんの束の間でもいい、人間どうしのつながり、思いやり、といったものがかきたてられたら、とねがっている―
ヴォネガットの作品の素晴らしい点は、彼の宇宙的に広がる途方もない想像力とニヒリステッィシュな視点、愛すべきユーモアのセンス、そして人間への優しき視線の絶妙な融合とバランスにある。彼の創出する世界はいつも絶望的でありながら、暖かな優しさに包まれている。浅倉久志が言うとおり、読者はその世界に絡め取られながら、不思議な安堵感を覚える、僕たちはバカでどうしようもないけれどそれは間違ったことじゃないんだ、そんな風に感じる。僕たちの存在は小さくて小さくて、どうしようもないぐらい意味がないんだということを確信させられながら、同時にそれでもいいんだと感じさせられる。それは決して人間の愚かしさの、小ささの肯定ではない、赦しなのだ。とてもとても優しい赦しなのだ。ヴォネガットのどうしようもない魅力はそこにある。少なくとも僕はそこに魅了されるし、強く心が締め付けられる思いをする。
そのヴォネガットが死んでもうすぐ1年が経つ。そして僕は今でも彼の死に対してどのような感想を抱けば良いのか分からないでいる。それでも僕は彼が幾つもの素晴らしい作品を残してくれたことに、極めて個人的に、感謝している。そしていつか彼の作品についてまとまった論文か何かを書ければと願っている。きっとそれはニヒリズムとキリスト教批判の視点からニーチェと彼の関係を追及するものになるだろうけれど、実はそれは彼の作品を楽しむ上で何の意味もないことも分かっている。それを分かっていながら何か恩返しがしたい、僕はこの1年ヴォネガットに対して常々そう思ってきた。
僕はこれからも彼の作品を何度も再読することになると思う。その度に彼は僕を笑わせてくれるだろうし、赦してくれるだろう。本来作家と読者の関係なんてものには何の意味もない。でもいつかヴォネガットに会えたら言ってみたい言葉が僕には一つある。
ピース。
2008年3月21日金曜日
実際には起こらなかった本当の物語
先日地下鉄に乗っていたら、ティム・オブライエンの"Things They Carried"(邦題『本当の戦争の話をしよう』)を読んでいるティーンエイジの女の子がいた。それだけの話なのだけれど、それが僕の大好きな小説なもんだから、なんだかそれだけでうれしくなった。
オブライエンは僕にとって特別な作家の一人で、とくに全米図書賞を受賞した"Going After Cacciato"(『カチアートを追跡して』) からは本当にたくさんのことを学んだ。想像力の豊かさと、それが作品の中で飛翔する様は悲しいほどに美しい。悲しいほどに美しいというのは、その想像力がただ無目的に奔流しているわけではないからだ。彼の想像力は、まるでそれを縛る鎖からだんだんと解き放たれるかのように、少しずつその自由さを増し、高く飛び、美しく舞う。その様を追いながら物語を読み進めるというのは、とても素晴らしい経験だ。そして読者はいつしか、想像力とは時に人を殺しもするし、生かしもするものだということを知るだろう。オブライエンがここで為した仕事の意味はとても大きい。ちょっと大げさかもしれないけれど、僕は歴史的な傑作だと思っている。
"Things They Carried"は僕が始めて読んだ彼の本。ベトナム戦争を扱った短編集で、これも『カチアート』に負けず劣らず素晴らしい。始めて読んだ時は素晴らしすぎて、ちょっと震えた。そんな風にオブライエンにやられてしまったのは僕だけではなくて、作家のボビー・アン・メイソンは「ここ十年で読んだ全てのストーリーのうちで、ティム・オブライエンのThings They Carriedが一番衝撃的だった。それは私をノックダウンさせたんだよ、ちょうど100ポンドのリュックサックが私に投げつけられたみたいに」、と言っている。
ここに収められている短篇はどれもすごく良いのだけれど、僕のお気に入りは表題作の"The Things They Carried"、"On the Rainy River"、翻訳版表題作の"How to Tell a True War Story"、そして"Speaking of Courage"といったところ。オブライエンは時にあまり技量のある作家ではないと言われるし、それは当たらずも遠からずという感じで間違ってはいないのだけれど、上記の作品に限って言えばそんな批判は全く当てはまらないと断言できる。ここでの彼はベストだ。彼は言いたいことをそのまま言うのではなく、その言いたいことの回りにあることを丁寧に語りながら、逆にその真ん中にある「語られずに残されたこと」が何であるのか浮き彫りにする。それらの物語は読むことの楽しみを思い出させてくれるし、物語の役割も教えてくれる。
この本の中で一番感銘的な文章を挙げろといわれたら、間違いなく以下の文章になる。
That's a true story that never happened. (これは実際には起こらなかった本当の話だ。)
同じようなことを画家パウル・クレーもどこかで言っていた。画家は目に見えないものを目に見えるようにしなければならない。形而上学の話をするつもりはないけれど、実際に起こったことや実際に目に見えることが真であるとは限らない。オブライエンは常に実際に起こったことの裏、あるいはその奥にある物事の真の姿を探している。ここに小説や物語の役割があるのではないかと僕は思う。事実と真実には大きな差がある。真実はいつも事実の影に隠れてその姿を簡単には見せてくれない。小説家は物語を語りながらその真実を暴露するのだ。この時期のオブライエンはその使命に燃えているようにすら見える。 さらに言うと、オブライエンには事実と真実の間を取り持つ類稀なバランス感覚がある。つまり彼はただ事実を蔑ろにしながら闇雲に真実を追うのではなく、その間をまるで綱渡りをするように描くのだ。これはある意味でとても危険な試みなのだけれど、彼は時に風に煽られふらつきながらも、その離れ業をやってのけている。
英語では小説を総称してフィクションと呼ぶ。フィクションとはもちろん虚構のことだ。だけれどその虚構を通して真実を暴露するというパラドックスが小説というものの性格には内在している。優れた小説は全て優れた虚構だ。そしてオブライエンの物語は、それが比類なく優れた虚構であるがゆえに素晴らしい。
"A thing may happen and be a total lie; another thing may not happen and be truer than the truth." (あることが起こり、それが全くの嘘っぱちであるかもしれない。ある他のことは起こらないかもしれない、けれどそれが真実よりももっと真実かもしれないんだ。)
オブライエンは僕にとって特別な作家の一人で、とくに全米図書賞を受賞した"Going After Cacciato"(『カチアートを追跡して』) からは本当にたくさんのことを学んだ。想像力の豊かさと、それが作品の中で飛翔する様は悲しいほどに美しい。悲しいほどに美しいというのは、その想像力がただ無目的に奔流しているわけではないからだ。彼の想像力は、まるでそれを縛る鎖からだんだんと解き放たれるかのように、少しずつその自由さを増し、高く飛び、美しく舞う。その様を追いながら物語を読み進めるというのは、とても素晴らしい経験だ。そして読者はいつしか、想像力とは時に人を殺しもするし、生かしもするものだということを知るだろう。オブライエンがここで為した仕事の意味はとても大きい。ちょっと大げさかもしれないけれど、僕は歴史的な傑作だと思っている。
"Things They Carried"は僕が始めて読んだ彼の本。ベトナム戦争を扱った短編集で、これも『カチアート』に負けず劣らず素晴らしい。始めて読んだ時は素晴らしすぎて、ちょっと震えた。そんな風にオブライエンにやられてしまったのは僕だけではなくて、作家のボビー・アン・メイソンは「ここ十年で読んだ全てのストーリーのうちで、ティム・オブライエンのThings They Carriedが一番衝撃的だった。それは私をノックダウンさせたんだよ、ちょうど100ポンドのリュックサックが私に投げつけられたみたいに」、と言っている。
ここに収められている短篇はどれもすごく良いのだけれど、僕のお気に入りは表題作の"The Things They Carried"、"On the Rainy River"、翻訳版表題作の"How to Tell a True War Story"、そして"Speaking of Courage"といったところ。オブライエンは時にあまり技量のある作家ではないと言われるし、それは当たらずも遠からずという感じで間違ってはいないのだけれど、上記の作品に限って言えばそんな批判は全く当てはまらないと断言できる。ここでの彼はベストだ。彼は言いたいことをそのまま言うのではなく、その言いたいことの回りにあることを丁寧に語りながら、逆にその真ん中にある「語られずに残されたこと」が何であるのか浮き彫りにする。それらの物語は読むことの楽しみを思い出させてくれるし、物語の役割も教えてくれる。
この本の中で一番感銘的な文章を挙げろといわれたら、間違いなく以下の文章になる。
That's a true story that never happened. (これは実際には起こらなかった本当の話だ。)
同じようなことを画家パウル・クレーもどこかで言っていた。画家は目に見えないものを目に見えるようにしなければならない。形而上学の話をするつもりはないけれど、実際に起こったことや実際に目に見えることが真であるとは限らない。オブライエンは常に実際に起こったことの裏、あるいはその奥にある物事の真の姿を探している。ここに小説や物語の役割があるのではないかと僕は思う。事実と真実には大きな差がある。真実はいつも事実の影に隠れてその姿を簡単には見せてくれない。小説家は物語を語りながらその真実を暴露するのだ。この時期のオブライエンはその使命に燃えているようにすら見える。 さらに言うと、オブライエンには事実と真実の間を取り持つ類稀なバランス感覚がある。つまり彼はただ事実を蔑ろにしながら闇雲に真実を追うのではなく、その間をまるで綱渡りをするように描くのだ。これはある意味でとても危険な試みなのだけれど、彼は時に風に煽られふらつきながらも、その離れ業をやってのけている。
英語では小説を総称してフィクションと呼ぶ。フィクションとはもちろん虚構のことだ。だけれどその虚構を通して真実を暴露するというパラドックスが小説というものの性格には内在している。優れた小説は全て優れた虚構だ。そしてオブライエンの物語は、それが比類なく優れた虚構であるがゆえに素晴らしい。
"A thing may happen and be a total lie; another thing may not happen and be truer than the truth." (あることが起こり、それが全くの嘘っぱちであるかもしれない。ある他のことは起こらないかもしれない、けれどそれが真実よりももっと真実かもしれないんだ。)
2008年3月6日木曜日
マリー・カポネグロのものすごい短篇『スター・カフェ』
マリー・カポネグロという作家の『スター・カフェ』という短篇を読んだ。この人はたぶん日本では全く知られていないし、アメリカでもそれほど知名度のある人じゃない。それでもこの『スター・カフェ』といいう小説はすごかった。ショックを受けるような小説に出会う経験というのはとても貴重だけれど、貴重である分その頻度も多くはない。村上春樹はどこかでアーヴィングの『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』を称して「直下型地震」のような衝撃を与える小説と書いていたけれど、この『スター・カフェ』もそのぐらいの衝撃がある。ジョン・ホークスが言うように、extraordinary(ものすごい)という形容がぴったりだと思う。
この小説は、例えるならばカポーティの『ミリアム』をもっともっと内的、外的に複雑にして、それを病的なまでのエロチズムで仕上げたような、かなりの問題作。この小説世界にすんなりと入って行くのはほぼ不可能と思われるほど実験的な小説です。でもそれがただの実験に終わっていないのがすごいところで、カポネグロはエレガントなまでにこの小説を完成させている。並みの作家が同じようなことをやろうとしたら、なんとなく力技のようになってしまって、わざとらしさが目立ちそうなものだけど、彼女の小説からはそういった力みが感じられない。この辺はオースターの初期作品あたりを思い浮かばせる。
例えば、主人公のキャロルが、鏡で四方を囲まれた部屋の中でその鏡の中の男とセックスをするシーンがある。男はただ鏡の中に存在するだけで、鏡の外側に、鏡のリフレクションの対象としては存在しない。ここは安易な要約が不可能な、多義的に膨れ上がるとても優れた場面なのだけれど、この場面は多くの読者はとても居心地が悪くしてしまうのではないかと思う。ポイントはその居心地の悪さが不快なものではにこと。それは深い内省を促すような不思議な居心地の悪さなのです。
僕たちが描写的な文章を読むとき、恐らく誰もが無意識にその場面のイメージをビジョンとして頭に浮かべているのではないかと思う。でも『スター・カフェ』の前述のシーンは完全にそれを拒否している。一人の女性がベッドの上で、鏡の中にしか存在しない男とセックスしているシーンを僕たちはどのようにビジョン化すればよいのだろうか?さらに言うと、鏡という概念、存在は常に視覚の概念と関係づいているために、読書は常にそのシーンのビジョン化の誘惑に突き動かされる。そしてそれは常に拒否されるのだ。このシーンだけではない。この短篇はとてもフィジカルでありながら、同時にコンセプチュアルでもある。その小説世界に絡みとられたとき、読者はとても不思議な居心地の悪さに襲われる。
詩にエクフレーシズという、簡単に言うと、視覚世界を言語に置き換えるジャンルがあるように、もともと視覚と言語は切り離せないな共犯関係にある。カポネグロのこの『スター・カフェ』という短篇はその関係の反省的な認識を促しているように思える。その精密に作り上げられた言語世界は情景の描写の様でありながら、実は言語そのもの描写とも言えるかもしれない。それは言うならば、肉体化した言語の世界だ。
僕がここで触れたのはこの短篇の一つの側面に過ぎません。これは突っ込みどころが満載の本当にものすごい小説で、性や自己認識のあり方をとても丁寧に扱った中身の濃い、抜群に優れた作品だと思う。
いつか日本にも紹介されたらいいと思うけど、この小説の翻訳はかなり難しいだろうな・・・。
この小説は、例えるならばカポーティの『ミリアム』をもっともっと内的、外的に複雑にして、それを病的なまでのエロチズムで仕上げたような、かなりの問題作。この小説世界にすんなりと入って行くのはほぼ不可能と思われるほど実験的な小説です。でもそれがただの実験に終わっていないのがすごいところで、カポネグロはエレガントなまでにこの小説を完成させている。並みの作家が同じようなことをやろうとしたら、なんとなく力技のようになってしまって、わざとらしさが目立ちそうなものだけど、彼女の小説からはそういった力みが感じられない。この辺はオースターの初期作品あたりを思い浮かばせる。
例えば、主人公のキャロルが、鏡で四方を囲まれた部屋の中でその鏡の中の男とセックスをするシーンがある。男はただ鏡の中に存在するだけで、鏡の外側に、鏡のリフレクションの対象としては存在しない。ここは安易な要約が不可能な、多義的に膨れ上がるとても優れた場面なのだけれど、この場面は多くの読者はとても居心地が悪くしてしまうのではないかと思う。ポイントはその居心地の悪さが不快なものではにこと。それは深い内省を促すような不思議な居心地の悪さなのです。
僕たちが描写的な文章を読むとき、恐らく誰もが無意識にその場面のイメージをビジョンとして頭に浮かべているのではないかと思う。でも『スター・カフェ』の前述のシーンは完全にそれを拒否している。一人の女性がベッドの上で、鏡の中にしか存在しない男とセックスしているシーンを僕たちはどのようにビジョン化すればよいのだろうか?さらに言うと、鏡という概念、存在は常に視覚の概念と関係づいているために、読書は常にそのシーンのビジョン化の誘惑に突き動かされる。そしてそれは常に拒否されるのだ。このシーンだけではない。この短篇はとてもフィジカルでありながら、同時にコンセプチュアルでもある。その小説世界に絡みとられたとき、読者はとても不思議な居心地の悪さに襲われる。
詩にエクフレーシズという、簡単に言うと、視覚世界を言語に置き換えるジャンルがあるように、もともと視覚と言語は切り離せないな共犯関係にある。カポネグロのこの『スター・カフェ』という短篇はその関係の反省的な認識を促しているように思える。その精密に作り上げられた言語世界は情景の描写の様でありながら、実は言語そのもの描写とも言えるかもしれない。それは言うならば、肉体化した言語の世界だ。
僕がここで触れたのはこの短篇の一つの側面に過ぎません。これは突っ込みどころが満載の本当にものすごい小説で、性や自己認識のあり方をとても丁寧に扱った中身の濃い、抜群に優れた作品だと思う。
いつか日本にも紹介されたらいいと思うけど、この小説の翻訳はかなり難しいだろうな・・・。
2008年3月5日水曜日
トバイアス・ウルフの仕事部屋
最新号の"poets & writers" の中に大変面白い、というかとても個人的に共感できるトバイアス・ウルフのインタビュー記事が載っていた。日本語には翻訳されていないと思うけれど、彼はあのレイモンド・カーヴァーとも親交があった、短篇小説の名手として知られている人で、少年時代のレオナルド・ディカプリオが主演した映画「ボーイズ・ライフ」の原作者でもあります。ちなみに「ボーイズ・ライフ」はノン・フィクション。現在はスタンフォード大の創作学科で教鞭もとっています。
彼のインタビューには色々興味深いことが書いてあったけれど(ゴードン・リッシュによるカーヴァー初期作品のハード・エディティングについての彼の意見は面白い)、僕が一番興味を持ったのは彼が物語を書くときの方法というか、物語への姿勢というかそういうこと。例えばウルフはこんなことを言っています。
「私はただ、物語を途中で放り投げてしまう習慣に陥ってしまうこと-そしてそれはとても簡単に習慣づいてしまうことなのだけれど-を恐れているんです。なぜって私が物語を書いているときは、どう考えたってそれがうまくいきそうに思えないから。例えそれが今私がどれほど誇りを持っている作品でもね。もし私が、物語がどうような方向をとるか分からない瞬間のために、物語を途中で投げ出してしまうような習慣を身に着けてしまっていたら、私はたぶんそれほど多くの作品を残してなかっただろうな。まぁ、実際私にはもともとそれほど沢山の作品はないけどね。私には長い作品リストなんてないんだ。でも恐らくそのリストは随分と短くなってたと思うよ、もし私が物事の最後まで見通す習慣を身に着けてなかったらね。」
僕なんかはこういう話を作家の口から聞くとなんとなく安心してしまう。このブログの最初の記事で書いたアーヴィングの話と比べてみて欲しい。物語の方向性に対してとても自信に満ちたマッチョでムキムキのアーヴィングとは違って、ウルフは物語の行く末がいつも見えているわけでは決してない。うまい具合に物語の方向が見えなくて、そこから逃げ出したそうになっているようにすら見える。こんなこと言うと失礼かもしれないけれど、ウルフはアーヴィングに比べてとてもひ弱で、人間味に溢れている気がする。小説を書くというのはとても楽しいことではあるけれど、決して楽じゃないのだ。同じようなことを志賀直哉も言っていた気がする。そういうことを正直に言われると、とてもホッとするのは僕だけだろうか?
だからウルフは書き物をするとき、スタンフォード大の図書館の地下にある小さな部屋に閉じこもるらしい。そこはとても孤独な空間で、窓も絵画もなく、あるのは蛍光灯だけ。電話もファックスもインターネットも、本すらない。「そこは仕事をするにはいい場所だよ」と彼は言う。そこに行くときは「自分の頭の周りをカヴァーで覆う」ようなものらしい。たぶん何か、それがどんな些細なものでも、物語の邪魔をするようなものがあったら、彼は物語から逃げ出したくなってしまうのではないだろうか。そういう物が何もない空間でウルフは自分の物語に集中し、自分の物語に最後まで徹底的に付き合っているのだと思う。そういう作家の仕事部屋を想像するのは素敵だし、そういう話をとても素直に話すことができるというのもとても素敵なことだと思う。
きっと物語にもとても正直な人なんじゃないかな。
彼のインタビューには色々興味深いことが書いてあったけれど(ゴードン・リッシュによるカーヴァー初期作品のハード・エディティングについての彼の意見は面白い)、僕が一番興味を持ったのは彼が物語を書くときの方法というか、物語への姿勢というかそういうこと。例えばウルフはこんなことを言っています。
「私はただ、物語を途中で放り投げてしまう習慣に陥ってしまうこと-そしてそれはとても簡単に習慣づいてしまうことなのだけれど-を恐れているんです。なぜって私が物語を書いているときは、どう考えたってそれがうまくいきそうに思えないから。例えそれが今私がどれほど誇りを持っている作品でもね。もし私が、物語がどうような方向をとるか分からない瞬間のために、物語を途中で投げ出してしまうような習慣を身に着けてしまっていたら、私はたぶんそれほど多くの作品を残してなかっただろうな。まぁ、実際私にはもともとそれほど沢山の作品はないけどね。私には長い作品リストなんてないんだ。でも恐らくそのリストは随分と短くなってたと思うよ、もし私が物事の最後まで見通す習慣を身に着けてなかったらね。」
僕なんかはこういう話を作家の口から聞くとなんとなく安心してしまう。このブログの最初の記事で書いたアーヴィングの話と比べてみて欲しい。物語の方向性に対してとても自信に満ちたマッチョでムキムキのアーヴィングとは違って、ウルフは物語の行く末がいつも見えているわけでは決してない。うまい具合に物語の方向が見えなくて、そこから逃げ出したそうになっているようにすら見える。こんなこと言うと失礼かもしれないけれど、ウルフはアーヴィングに比べてとてもひ弱で、人間味に溢れている気がする。小説を書くというのはとても楽しいことではあるけれど、決して楽じゃないのだ。同じようなことを志賀直哉も言っていた気がする。そういうことを正直に言われると、とてもホッとするのは僕だけだろうか?
だからウルフは書き物をするとき、スタンフォード大の図書館の地下にある小さな部屋に閉じこもるらしい。そこはとても孤独な空間で、窓も絵画もなく、あるのは蛍光灯だけ。電話もファックスもインターネットも、本すらない。「そこは仕事をするにはいい場所だよ」と彼は言う。そこに行くときは「自分の頭の周りをカヴァーで覆う」ようなものらしい。たぶん何か、それがどんな些細なものでも、物語の邪魔をするようなものがあったら、彼は物語から逃げ出したくなってしまうのではないだろうか。そういう物が何もない空間でウルフは自分の物語に集中し、自分の物語に最後まで徹底的に付き合っているのだと思う。そういう作家の仕事部屋を想像するのは素敵だし、そういう話をとても素直に話すことができるというのもとても素敵なことだと思う。
きっと物語にもとても正直な人なんじゃないかな。
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