2008年3月21日金曜日

実際には起こらなかった本当の物語

 先日地下鉄に乗っていたら、ティム・オブライエンの"Things They Carried"(邦題『本当の戦争の話をしよう』)を読んでいるティーンエイジの女の子がいた。それだけの話なのだけれど、それが僕の大好きな小説なもんだから、なんだかそれだけでうれしくなった。
 オブライエンは僕にとって特別な作家の一人で、とくに全米図書賞を受賞した"Going After Cacciato"(『カチアートを追跡して』) からは本当にたくさんのことを学んだ。想像力の豊かさと、それが作品の中で飛翔する様は悲しいほどに美しい。悲しいほどに美しいというのは、その想像力がただ無目的に奔流しているわけではないからだ。彼の想像力は、まるでそれを縛る鎖からだんだんと解き放たれるかのように、少しずつその自由さを増し、高く飛び、美しく舞う。その様を追いながら物語を読み進めるというのは、とても素晴らしい経験だ。そして読者はいつしか、想像力とは時に人を殺しもするし、生かしもするものだということを知るだろう。オブライエンがここで為した仕事の意味はとても大きい。ちょっと大げさかもしれないけれど、僕は歴史的な傑作だと思っている。
 "Things They Carried"は僕が始めて読んだ彼の本。ベトナム戦争を扱った短編集で、これも『カチアート』に負けず劣らず素晴らしい。始めて読んだ時は素晴らしすぎて、ちょっと震えた。そんな風にオブライエンにやられてしまったのは僕だけではなくて、作家のボビー・アン・メイソンは「ここ十年で読んだ全てのストーリーのうちで、ティム・オブライエンのThings They Carriedが一番衝撃的だった。それは私をノックダウンさせたんだよ、ちょうど100ポンドのリュックサックが私に投げつけられたみたいに」、と言っている。
 ここに収められている短篇はどれもすごく良いのだけれど、僕のお気に入りは表題作の"The Things They Carried"、"On the Rainy River"、翻訳版表題作の"How to Tell a True War Story"、そして"Speaking of Courage"といったところ。オブライエンは時にあまり技量のある作家ではないと言われるし、それは当たらずも遠からずという感じで間違ってはいないのだけれど、上記の作品に限って言えばそんな批判は全く当てはまらないと断言できる。ここでの彼はベストだ。彼は言いたいことをそのまま言うのではなく、その言いたいことの回りにあることを丁寧に語りながら、逆にその真ん中にある「語られずに残されたこと」が何であるのか浮き彫りにする。それらの物語は読むことの楽しみを思い出させてくれるし、物語の役割も教えてくれる。
 この本の中で一番感銘的な文章を挙げろといわれたら、間違いなく以下の文章になる。

 That's a true story that never happened.  (これは実際には起こらなかった本当の話だ。)

 同じようなことを画家パウル・クレーもどこかで言っていた。画家は目に見えないものを目に見えるようにしなければならない。形而上学の話をするつもりはないけれど、実際に起こったことや実際に目に見えることが真であるとは限らない。オブライエンは常に実際に起こったことの裏、あるいはその奥にある物事の真の姿を探している。ここに小説や物語の役割があるのではないかと僕は思う。事実と真実には大きな差がある。真実はいつも事実の影に隠れてその姿を簡単には見せてくれない。小説家は物語を語りながらその真実を暴露するのだ。この時期のオブライエンはその使命に燃えているようにすら見える。 さらに言うと、オブライエンには事実と真実の間を取り持つ類稀なバランス感覚がある。つまり彼はただ事実を蔑ろにしながら闇雲に真実を追うのではなく、その間をまるで綱渡りをするように描くのだ。これはある意味でとても危険な試みなのだけれど、彼は時に風に煽られふらつきながらも、その離れ業をやってのけている。
 英語では小説を総称してフィクションと呼ぶ。フィクションとはもちろん虚構のことだ。だけれどその虚構を通して真実を暴露するというパラドックスが小説というものの性格には内在している。優れた小説は全て優れた虚構だ。そしてオブライエンの物語は、それが比類なく優れた虚構であるがゆえに素晴らしい。

 "A thing may happen and be a total lie; another thing may not happen and be truer than the truth." (あることが起こり、それが全くの嘘っぱちであるかもしれない。ある他のことは起こらないかもしれない、けれどそれが真実よりももっと真実かもしれないんだ。)

2008年3月6日木曜日

マリー・カポネグロのものすごい短篇『スター・カフェ』

 マリー・カポネグロという作家の『スター・カフェ』という短篇を読んだ。この人はたぶん日本では全く知られていないし、アメリカでもそれほど知名度のある人じゃない。それでもこの『スター・カフェ』といいう小説はすごかった。ショックを受けるような小説に出会う経験というのはとても貴重だけれど、貴重である分その頻度も多くはない。村上春樹はどこかでアーヴィングの『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』を称して「直下型地震」のような衝撃を与える小説と書いていたけれど、この『スター・カフェ』もそのぐらいの衝撃がある。ジョン・ホークスが言うように、extraordinary(ものすごい)という形容がぴったりだと思う。
 この小説は、例えるならばカポーティの『ミリアム』をもっともっと内的、外的に複雑にして、それを病的なまでのエロチズムで仕上げたような、かなりの問題作。この小説世界にすんなりと入って行くのはほぼ不可能と思われるほど実験的な小説です。でもそれがただの実験に終わっていないのがすごいところで、カポネグロはエレガントなまでにこの小説を完成させている。並みの作家が同じようなことをやろうとしたら、なんとなく力技のようになってしまって、わざとらしさが目立ちそうなものだけど、彼女の小説からはそういった力みが感じられない。この辺はオースターの初期作品あたりを思い浮かばせる。
 例えば、主人公のキャロルが、鏡で四方を囲まれた部屋の中でその鏡の中の男とセックスをするシーンがある。男はただ鏡の中に存在するだけで、鏡の外側に、鏡のリフレクションの対象としては存在しない。ここは安易な要約が不可能な、多義的に膨れ上がるとても優れた場面なのだけれど、この場面は多くの読者はとても居心地が悪くしてしまうのではないかと思う。ポイントはその居心地の悪さが不快なものではにこと。それは深い内省を促すような不思議な居心地の悪さなのです。
 僕たちが描写的な文章を読むとき、恐らく誰もが無意識にその場面のイメージをビジョンとして頭に浮かべているのではないかと思う。でも『スター・カフェ』の前述のシーンは完全にそれを拒否している。一人の女性がベッドの上で、鏡の中にしか存在しない男とセックスしているシーンを僕たちはどのようにビジョン化すればよいのだろうか?さらに言うと、鏡という概念、存在は常に視覚の概念と関係づいているために、読書は常にそのシーンのビジョン化の誘惑に突き動かされる。そしてそれは常に拒否されるのだ。このシーンだけではない。この短篇はとてもフィジカルでありながら、同時にコンセプチュアルでもある。その小説世界に絡みとられたとき、読者はとても不思議な居心地の悪さに襲われる。
 詩にエクフレーシズという、簡単に言うと、視覚世界を言語に置き換えるジャンルがあるように、もともと視覚と言語は切り離せないな共犯関係にある。カポネグロのこの『スター・カフェ』という短篇はその関係の反省的な認識を促しているように思える。その精密に作り上げられた言語世界は情景の描写の様でありながら、実は言語そのもの描写とも言えるかもしれない。それは言うならば、肉体化した言語の世界だ。
 僕がここで触れたのはこの短篇の一つの側面に過ぎません。これは突っ込みどころが満載の本当にものすごい小説で、性や自己認識のあり方をとても丁寧に扱った中身の濃い、抜群に優れた作品だと思う。
 いつか日本にも紹介されたらいいと思うけど、この小説の翻訳はかなり難しいだろうな・・・。

2008年3月5日水曜日

トバイアス・ウルフの仕事部屋

 最新号の"poets & writers" の中に大変面白い、というかとても個人的に共感できるトバイアス・ウルフのインタビュー記事が載っていた。日本語には翻訳されていないと思うけれど、彼はあのレイモンド・カーヴァーとも親交があった、短篇小説の名手として知られている人で、少年時代のレオナルド・ディカプリオが主演した映画「ボーイズ・ライフ」の原作者でもあります。ちなみに「ボーイズ・ライフ」はノン・フィクション。現在はスタンフォード大の創作学科で教鞭もとっています。
 彼のインタビューには色々興味深いことが書いてあったけれど(ゴードン・リッシュによるカーヴァー初期作品のハード・エディティングについての彼の意見は面白い)、僕が一番興味を持ったのは彼が物語を書くときの方法というか、物語への姿勢というかそういうこと。例えばウルフはこんなことを言っています。

 「私はただ、物語を途中で放り投げてしまう習慣に陥ってしまうこと-そしてそれはとても簡単に習慣づいてしまうことなのだけれど-を恐れているんです。なぜって私が物語を書いているときは、どう考えたってそれがうまくいきそうに思えないから。例えそれが今私がどれほど誇りを持っている作品でもね。もし私が、物語がどうような方向をとるか分からない瞬間のために、物語を途中で投げ出してしまうような習慣を身に着けてしまっていたら、私はたぶんそれほど多くの作品を残してなかっただろうな。まぁ、実際私にはもともとそれほど沢山の作品はないけどね。私には長い作品リストなんてないんだ。でも恐らくそのリストは随分と短くなってたと思うよ、もし私が物事の最後まで見通す習慣を身に着けてなかったらね。」

 僕なんかはこういう話を作家の口から聞くとなんとなく安心してしまう。このブログの最初の記事で書いたアーヴィングの話と比べてみて欲しい。物語の方向性に対してとても自信に満ちたマッチョでムキムキのアーヴィングとは違って、ウルフは物語の行く末がいつも見えているわけでは決してない。うまい具合に物語の方向が見えなくて、そこから逃げ出したそうになっているようにすら見える。こんなこと言うと失礼かもしれないけれど、ウルフはアーヴィングに比べてとてもひ弱で、人間味に溢れている気がする。小説を書くというのはとても楽しいことではあるけれど、決して楽じゃないのだ。同じようなことを志賀直哉も言っていた気がする。そういうことを正直に言われると、とてもホッとするのは僕だけだろうか?
 だからウルフは書き物をするとき、スタンフォード大の図書館の地下にある小さな部屋に閉じこもるらしい。そこはとても孤独な空間で、窓も絵画もなく、あるのは蛍光灯だけ。電話もファックスもインターネットも、本すらない。「そこは仕事をするにはいい場所だよ」と彼は言う。そこに行くときは「自分の頭の周りをカヴァーで覆う」ようなものらしい。たぶん何か、それがどんな些細なものでも、物語の邪魔をするようなものがあったら、彼は物語から逃げ出したくなってしまうのではないだろうか。そういう物が何もない空間でウルフは自分の物語に集中し、自分の物語に最後まで徹底的に付き合っているのだと思う。そういう作家の仕事部屋を想像するのは素敵だし、そういう話をとても素直に話すことができるというのもとても素敵なことだと思う。
 きっと物語にもとても正直な人なんじゃないかな。

2008年3月2日日曜日

ニーチェのニヒリズム(続き)

 ニーチェにおいて「子供」や「遊戯」がどうのうな意味を持つのか考える前に、ニーチェが大嫌いであったカントがそれらについてどう考えていたか考えてみたい。 
 カントは『判断力批判』の中でこんなことを言っている。「美しいものに対する趣味の適意のみが、ひとりこれのみが、無関心で自由な適意である」(宇都宮芳明訳、以下同)。ここでカントが言っているのは、端的に言うと、美的認識における関心からの解放である。僕たちが何かを美しいと感じるとき、それは「~だから」という関心の下にはない。そういった特定の関心から自由にならなければ美的認識は成立しない。もしそうでなければ「なんら純粋な趣味判断ではない」。美しいものとの関わりとは、僕たちの関心からそれをそれ自体として自由に解き放ち、それを判断する側もまた無関心に、そして自由にそれを享受することである。またカントはこんなことも言う。「この(美しい対象の表象)によって活動させられる認識能力は、その際自由な戯れのうちにあるが、それは規定されたいかなる概念も認識能力を特殊な認識規定へと制限することがないからである。それゆえ、この表象における心の状態は、認識一般に向けられた、与えられた表象における表象諸力の自由な戯れの感情」でなければならない。ここでもニーチェ同様、「戯れ」つまり「遊戯」という概念が重要な役割を果たしているのが分かるだろう。
 とてもとても簡単にカントが言っていることを要約すると、美的判断においては僕たちの認識能力がその対象のうちで「戯れ」ているということだ。遊戯とはすべての目的や意図から解き放たれた、つまり無関心で、自由な営みである。その営みにおいてのみ美的判断が成立する。目的や意図への無関心、そして認識がその規則から自由になり戯れることによって、僕たちは何かを美しいと感じる。
 さて、ニーチェは永遠回帰について始めて記した覚え書きで以下のように述べる。(できれば略を交えないで紹介したいのだけれど、長いので略をまじえながら。気になる人は白水社版ニーチェ全集(第1期)、第12巻を読んでください。)

 以前ならばもっとも強い刺激で夢中にさせたものが、今ではまったく違う意味を持つ。今では単なる遊戯として受け取られ、認められる。真ならざるものの中で生として原理的には否定されながらも、形式および刺激として美的に享受され、養われる。かつては人生の重大事であった物事に対してわれわれは、小児のような態度をとる。(中略)つまり、もろもろの衝動を認識の基盤として維持しながらも、そうした衝動が認識の敵対者になる地点をわきまえていること。このような生は総体としてどの程度に居心地の良いものとなるだろうか?一個の小児の遊戯であり、そしてそれを賢者の眼が眺めていることになるろう。(中略)無関心が深くわれわれのうちに働いていなけらばならない。」(三島憲一訳)

 随分とトーンは違うけれど、ここでニーチェは(たぶん)自分ではそれと気づかずカントとほとんど同じことを言っています。「もろもろの衝動」という関心が美的な享受にとって「敵対者」になるとニーチェは言っている。そして美的な享受は一個の小児の遊戯であり、僕たちは無関心な状態となっている。ツァラトゥストラの語る「子供」の「聖なる肯定」の原初の形がここにある。子供にとって世界は肯定されなければならない対象ではない。つまり世界は「肯定」という関心の下にない。子供は無関心に、ひたすら自由に遊び続ける。そのように「肯定」ということが、ほとんど意味を成さないような無関心的な肯定こそを「聖なる肯定」とツァラトゥストラは言うのだ。

 ニーチェにとってニヒリズムとは何よりも「否定」であったのではないかと僕は思う。キリスト教は現世を否定し、それを苦悩とし、神の国という形而上的な世界を作り上げた。現世での苦悩は神の国での幸福を得るための試練として、譲歩つきで受け入れられるものになってしまった。キリスト教においてベクトルの矢印は現世だとか現在の自己には向けられていない。その矢印が向く方向は未来の浄土であり、未来の自己だ。そしてニーチェがその生涯をかけてやろうとしたのは、そのベクトルの矢印をこの現世に、現在の自己に向けることであり、それを肯定することだったのではないだろうか。それが「聖なる肯定」であり、そしてそこにこそニヒリズムの克服を見ていたように思う。
 僕たちは理想を持ち、そこに辿り着くことを自己実現だと思っている。でも本当の自己実現とは、理想の自己になることではなく、現実の自己になることだ。もしもこの世界に価値というものがあるのならば、それは頭上の理想ではなく、他の誰でもない自己であることであり、自己であったことなのだから。