2008年3月2日日曜日

ニーチェのニヒリズム(続き)

 ニーチェにおいて「子供」や「遊戯」がどうのうな意味を持つのか考える前に、ニーチェが大嫌いであったカントがそれらについてどう考えていたか考えてみたい。 
 カントは『判断力批判』の中でこんなことを言っている。「美しいものに対する趣味の適意のみが、ひとりこれのみが、無関心で自由な適意である」(宇都宮芳明訳、以下同)。ここでカントが言っているのは、端的に言うと、美的認識における関心からの解放である。僕たちが何かを美しいと感じるとき、それは「~だから」という関心の下にはない。そういった特定の関心から自由にならなければ美的認識は成立しない。もしそうでなければ「なんら純粋な趣味判断ではない」。美しいものとの関わりとは、僕たちの関心からそれをそれ自体として自由に解き放ち、それを判断する側もまた無関心に、そして自由にそれを享受することである。またカントはこんなことも言う。「この(美しい対象の表象)によって活動させられる認識能力は、その際自由な戯れのうちにあるが、それは規定されたいかなる概念も認識能力を特殊な認識規定へと制限することがないからである。それゆえ、この表象における心の状態は、認識一般に向けられた、与えられた表象における表象諸力の自由な戯れの感情」でなければならない。ここでもニーチェ同様、「戯れ」つまり「遊戯」という概念が重要な役割を果たしているのが分かるだろう。
 とてもとても簡単にカントが言っていることを要約すると、美的判断においては僕たちの認識能力がその対象のうちで「戯れ」ているということだ。遊戯とはすべての目的や意図から解き放たれた、つまり無関心で、自由な営みである。その営みにおいてのみ美的判断が成立する。目的や意図への無関心、そして認識がその規則から自由になり戯れることによって、僕たちは何かを美しいと感じる。
 さて、ニーチェは永遠回帰について始めて記した覚え書きで以下のように述べる。(できれば略を交えないで紹介したいのだけれど、長いので略をまじえながら。気になる人は白水社版ニーチェ全集(第1期)、第12巻を読んでください。)

 以前ならばもっとも強い刺激で夢中にさせたものが、今ではまったく違う意味を持つ。今では単なる遊戯として受け取られ、認められる。真ならざるものの中で生として原理的には否定されながらも、形式および刺激として美的に享受され、養われる。かつては人生の重大事であった物事に対してわれわれは、小児のような態度をとる。(中略)つまり、もろもろの衝動を認識の基盤として維持しながらも、そうした衝動が認識の敵対者になる地点をわきまえていること。このような生は総体としてどの程度に居心地の良いものとなるだろうか?一個の小児の遊戯であり、そしてそれを賢者の眼が眺めていることになるろう。(中略)無関心が深くわれわれのうちに働いていなけらばならない。」(三島憲一訳)

 随分とトーンは違うけれど、ここでニーチェは(たぶん)自分ではそれと気づかずカントとほとんど同じことを言っています。「もろもろの衝動」という関心が美的な享受にとって「敵対者」になるとニーチェは言っている。そして美的な享受は一個の小児の遊戯であり、僕たちは無関心な状態となっている。ツァラトゥストラの語る「子供」の「聖なる肯定」の原初の形がここにある。子供にとって世界は肯定されなければならない対象ではない。つまり世界は「肯定」という関心の下にない。子供は無関心に、ひたすら自由に遊び続ける。そのように「肯定」ということが、ほとんど意味を成さないような無関心的な肯定こそを「聖なる肯定」とツァラトゥストラは言うのだ。

 ニーチェにとってニヒリズムとは何よりも「否定」であったのではないかと僕は思う。キリスト教は現世を否定し、それを苦悩とし、神の国という形而上的な世界を作り上げた。現世での苦悩は神の国での幸福を得るための試練として、譲歩つきで受け入れられるものになってしまった。キリスト教においてベクトルの矢印は現世だとか現在の自己には向けられていない。その矢印が向く方向は未来の浄土であり、未来の自己だ。そしてニーチェがその生涯をかけてやろうとしたのは、そのベクトルの矢印をこの現世に、現在の自己に向けることであり、それを肯定することだったのではないだろうか。それが「聖なる肯定」であり、そしてそこにこそニヒリズムの克服を見ていたように思う。
 僕たちは理想を持ち、そこに辿り着くことを自己実現だと思っている。でも本当の自己実現とは、理想の自己になることではなく、現実の自己になることだ。もしもこの世界に価値というものがあるのならば、それは頭上の理想ではなく、他の誰でもない自己であることであり、自己であったことなのだから。

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