あまり知られていないことだけれど、三平方の定理で有名なピタゴラスは、古代ギリシアにおいて秘密結社のようなものを組織し、その仲間と共に共同生活をしながら哲学や数学の研究に励んでいた、現代人の感覚からいうとかなり眉唾ものの如何わしい人であった。そのピタゴラス派の人々が考えていたことの一つにハルモニア・ムンディというものがある。宇宙には「炉」という燃え盛る炎があり、その周りを10個の天体がそれぞれ一定の間隔を保ちながら周り続け、その回る速さに応じて音響を発し、それが調和して美しいメロディーを奏でているという考えである。それがどれほど現代人に不合理に映るとしても、僕はそれはとても美しい考え方だと思うし、どこかワクワクするような好奇心すら覚える。
それに対してフリードリッヒ・ニーチェは『悦ばしき知識』の中でこんなことを言う。「宇宙運動のからくり全体は、とてもメロディーなどと呼べるしろものでないその調子を永遠に繰り返すのだ」。ニーチェはもともと古典文献学の天才として注目を浴びた人で、古代ギリシアの知識には事欠かなかったことからするに、これはピタゴラスを念頭に置いての文章であると考えて間違いないと思う。そしてここでニーチェは宇宙は美しきメロディーなど奏でていないという。それよりも「世界の総体的性格は、永遠にいつまでもカオスである」(『悦ばしき知識』)と言うのだ。僕はここでピタゴラスとニーチェとどちらが正しいかということを書くつもりはない。ただニーチェのこの言葉は、僕たちがある瞬間に感じる不安や恐怖、あるいは一種の気だるさのようなものを正確に射抜いていると思う。もちろんこれはニヒリズムの一つの形式ではある。ただこれをしてニーチェの複雑極まりないニヒリズム論のコアな部分を理解したことにはならない。
実は先に挙げた『悦ばしき知識』からの引用の「宇宙運動」というタームには、かなり長い注釈が必要となる。この「宇宙運動」という訳はちくま学術文庫版ニーチェ全集の信太正三訳に倣ったのだけれど、原文ではspielwerkとなっている。spielとは英語でplayにあたり、werkはworkにあたる。つまりこれは「遊戯の運動」という意味なのだ。もちろん信太はニーチェがピタゴラスを念頭に置いていることを理解した上で訳しているわけで、よく練られたとても面白い訳ではあるが、ニーチェの真意は少し外してしまっているだろう。この言葉の解釈はニーチェのニヒリズム論理解の上でとても重要である。
『ツァラトゥストラかく語りき』の冒頭の三つの精神の変化は有名なので知っている人も多いだろう。ツァラトゥストラは精神がラクダ、ライオン、子供へと変化するという。そしてこの子供という精神のあり方と、spielつまり「遊戯」という概念は分かちがたく結びついている。
少し長くなりそうなので続きは次回書きます。
2008年2月19日火曜日
2008年2月12日火曜日
「新しい天使」と「グレート・ギャツビー」
ヴァルター・ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』の中に、パウル・クレーの「新しい天使」(このブログの写真に使わせてもらっている絵です)という絵に寄せた素晴らしい文章がある。僕の訳なので幾分その素晴らしさが色褪せてしまいますが、以下がその文章。
クレーの「新しい天使」と名づけられた絵画がある。ある天使がじっと見つめている何ものからか動き去ろうとしているかのような絵だ。彼の目は一点に集中され、その口は開かれ、その翼は広げられている。これこそ我々が歴史の天使として認知するものだ。彼の顔は過去に向けられている。我々が物事の連鎖を見るところに、彼は一つのカタストローフを見る。それは残骸を残骸の上に積み重ね上げ、彼の足元へと投げつけられているのだ。天使はそこに留まり、死者を、そして破壊された全てのものを甦らせたいのだろう。しかし強風が楽園から吹きつけている。それは彼の翼を暴力的に捕らえ、そのせいで天使はその翼を閉じることも敵わない。この強風は抵抗する余地もなく、彼の背中の向こうにある未来へと彼を推し進めている。そしてその一方で、彼の目の前に広がる残骸の山は高くなるばかりだ。この強風こそ我々が前進と呼ぶものなのだ。
我々の前進の背後には忘却され、破棄され、死へと追いやられたものの残骸が堆く積み上げられている。クレーの天使はその残骸を甦らせようとする歴史の天使なのだ。彼は過ぎ去り、朽ち果てたものを見捨てることができず、その再生を望んでいる。しかし歴史の天使をもってしてもそれは敵わない。彼にすら、いや彼にこそ前進という名の強風が吹き付けられ、彼にはそこに、つまりは過去に、留まることが出来ないのだ。彼は傷ついているように見える。泣いているようにも見える。クレーの絵は、そしてベンヤミンの文章は、前進(ある訳者は英語でいうこのprogressという単語を「進歩」と訳している)の持つ悲劇的な二面性を暴露している。
僕はこのベンヤミンの文章を初めて読んだとき、ある他の一文を思い出した。それはあの有名な『グレート・ギャツビー』の最後を飾る一文である。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(村上春樹訳)
フィッツジェラルドによるこの名文は「新しい天使」とは正反対のアイデアを示し、そして呼応している。天使は未来へと流されながら過去へと目を向けている。その反対に「我々」は過去へ流されながら前へ、未来へ向かっている。僕はこの相反する両者の関係を、「天使」と「我々」の類型の差とは考えるべきでないと思う。つまり、過去を見つめながら未来へと推されてしまう天使という類型と、未来を見つめながら過去へと戻されそうになってしまう我々という類型の差とは考えるべきではない。少なくともそこにばかり注目すると、この二つのアイデアが示す興味深い共通点を見逃してしまう。それよりも注目すべきは、この両者が共有する「停滞」の感覚なのだ。
この両者が共有するのは、自らの意思とそれを阻む大きな力との間で生じる、身動きの取れない停滞の感覚なのである。天使もそして我々も、過去へ戻ることも未来へ向かうことも「上手に」はできない。それを阻む大きな流れに逆らいながら、天使も我々も留まりたい場所や向かいたい場所を見つめているのだ。だからそれは天使と我々の不器用さの暴露でもある。
前へも後ろへも進むことが出来ないという感覚は、あるいはそれは器用にこなすことが出来ないという感覚は、僕たちを絶望と苦悩へと追いやると言ったらあまりに陳腐かもしれない。しかしその停滞と不器用さの感覚から二つの全く陳腐ではない素晴らしい作品が生まれていることは、大きな意味があることのように僕には思える。
クレーの「新しい天使」と名づけられた絵画がある。ある天使がじっと見つめている何ものからか動き去ろうとしているかのような絵だ。彼の目は一点に集中され、その口は開かれ、その翼は広げられている。これこそ我々が歴史の天使として認知するものだ。彼の顔は過去に向けられている。我々が物事の連鎖を見るところに、彼は一つのカタストローフを見る。それは残骸を残骸の上に積み重ね上げ、彼の足元へと投げつけられているのだ。天使はそこに留まり、死者を、そして破壊された全てのものを甦らせたいのだろう。しかし強風が楽園から吹きつけている。それは彼の翼を暴力的に捕らえ、そのせいで天使はその翼を閉じることも敵わない。この強風は抵抗する余地もなく、彼の背中の向こうにある未来へと彼を推し進めている。そしてその一方で、彼の目の前に広がる残骸の山は高くなるばかりだ。この強風こそ我々が前進と呼ぶものなのだ。
我々の前進の背後には忘却され、破棄され、死へと追いやられたものの残骸が堆く積み上げられている。クレーの天使はその残骸を甦らせようとする歴史の天使なのだ。彼は過ぎ去り、朽ち果てたものを見捨てることができず、その再生を望んでいる。しかし歴史の天使をもってしてもそれは敵わない。彼にすら、いや彼にこそ前進という名の強風が吹き付けられ、彼にはそこに、つまりは過去に、留まることが出来ないのだ。彼は傷ついているように見える。泣いているようにも見える。クレーの絵は、そしてベンヤミンの文章は、前進(ある訳者は英語でいうこのprogressという単語を「進歩」と訳している)の持つ悲劇的な二面性を暴露している。
僕はこのベンヤミンの文章を初めて読んだとき、ある他の一文を思い出した。それはあの有名な『グレート・ギャツビー』の最後を飾る一文である。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(村上春樹訳)
フィッツジェラルドによるこの名文は「新しい天使」とは正反対のアイデアを示し、そして呼応している。天使は未来へと流されながら過去へと目を向けている。その反対に「我々」は過去へ流されながら前へ、未来へ向かっている。僕はこの相反する両者の関係を、「天使」と「我々」の類型の差とは考えるべきでないと思う。つまり、過去を見つめながら未来へと推されてしまう天使という類型と、未来を見つめながら過去へと戻されそうになってしまう我々という類型の差とは考えるべきではない。少なくともそこにばかり注目すると、この二つのアイデアが示す興味深い共通点を見逃してしまう。それよりも注目すべきは、この両者が共有する「停滞」の感覚なのだ。
この両者が共有するのは、自らの意思とそれを阻む大きな力との間で生じる、身動きの取れない停滞の感覚なのである。天使もそして我々も、過去へ戻ることも未来へ向かうことも「上手に」はできない。それを阻む大きな流れに逆らいながら、天使も我々も留まりたい場所や向かいたい場所を見つめているのだ。だからそれは天使と我々の不器用さの暴露でもある。
前へも後ろへも進むことが出来ないという感覚は、あるいはそれは器用にこなすことが出来ないという感覚は、僕たちを絶望と苦悩へと追いやると言ったらあまりに陳腐かもしれない。しかしその停滞と不器用さの感覚から二つの全く陳腐ではない素晴らしい作品が生まれていることは、大きな意味があることのように僕には思える。
2008年2月8日金曜日
ジョン・アーヴィング
先日ジョン・アーヴィングに会う機会があった。といっても、彼にとって僕は何百人もの聴衆の一人にしかすぎなかったわけだけれど。それでも僕にとっては長い間愛読してきた作家との、大げさに言えば、出会いだった。そしてそれはとても素敵な体験でした。
場所はマンハッタンのヒルトンホテル。AWP(Association of Writers & Writers Program)の年一回のカンファレンスが今年はニューヨークで開かれ、僕もその協会の会員として参加させてもらった。
Adelphi University創作学科のディレクターで詩人でもあるジュディース・バウメル(ジュディーのことは個人的に知っているけれど、すごく素敵な女性です)に紹介されて壇上に上がったアーヴィングは、あの『ガープの世界』を出版した時の写真同様、シャツの上からでもわかるがっしりとした体つきをしていて、顔には、僕なんかにはとてもとても不可能なくらいの、自信の表情を浮かべていた。初めて彼の写真を見た時も思ったけれど、今でも彼は小説家というよりはレスリングの選手に見えた。ガープの頃より幾分皺が増えて、白髪頭になってはいたけれど、それはやはり驚くべきことだと思う。なんといってもあれから30年も経っているのだ。
アーヴィングは幾つかの決まり文句と、冗談で聴衆を笑わせた後、自分は一番最後の文章から小説を書き始めると言った。物語の行き着く先を決め、あるいは物語のゴールに標準を合わせながら、彼は物語る。そのようにしてアーヴィングは自分の小説を自分のコントロール下に置くのだ。
何年か前にアーヴィングのインタビュー記事を読んだ時、この人はなんて頑固で融通の利かない作家なんだろうと思った。作品からそんな印象を受けたことは全くないけれど、それでも自分の小説を自分のコントロール下に置こうとする彼の頑なな姿勢には少々辟易させられたのを覚えている。僕は個人的に小説を自分のコントロール下に置くなどというのは、おこがましいことだと思っていた。三島由紀夫という作家を僕は基本的に読まないのだけれど、大学受験で出題された彼のエッセイのことはよく覚えている。そのエッセイで三島は何故自分が推理小説を好まないかということを書いていた。三島によれば推理小説家はエンディングありきで小説を書き始める。しかし小説家というのは登場人物に性格を与え、場面に流れを生み出し、その後はストーリーに身を任せなければならないということだった。小説家が自分のできること全てを行えば、後は小説そのものが作家をその小説の行き着くべき場所まで導いてくれるという論だ。その後、こちらは敬愛する、村上春樹がインタビューで、自分の書く物語がその後どういう展開をするのか分からずに、自分自身読者のような立場で小説を書くというのを読んで以来、僕は小説家の力よりも小説そのものの力を少々ステレオタイプ的に信じるようになっていた。つまり物語のイニシアチブを取るのは物語そのもので、小説家ではないと信じていた。
村上春樹のインタビューを読むと、『ねじまき鳥クロニクル』を書き始めたとき、彼の頭にあったのは、物語の始まりのイメージでしかなかったことが分かる。そしてそれこそが物語の始まり方だと頑なに信じていた僕にとって、アーヴィングの話は衝撃的ですらあった。頑固であったのはアーヴィングではなく僕のほうだったのだ(もちろんアーヴィングだって相当頑固だと思うけど)。物語の発生のしかたに決まりなどはない。自分の小説の最後の一説が実際の小説の中でどのように機能しているか、自分の小説の例に挙げながら話すアーヴィングを前に、僕は少々圧倒されてしまった。
そしてアーヴィングは彼が本当に一流の作家だと確信させるような話をしてくれた。例えば『ガープ』ならば作品の半ばまで、ガープかあるいはその母親ジェニーかどちらが物語の主人公になるか分からなかったというのだ。仮に作家が自分の物語を自分のコントロール下に置きたいと望むならば、主人公が誰になるか分からないはずがない、というのがごく一般的な意見ではないだろうか。そしてアーヴィングはそのコントロールへの固執が人一倍強い作家なのだ。しかし彼はそんな重要なことも決めないまま小説を書く。物語をコントロール下に置こうとしながらも、そしてそのために多大な労力を払いながらも、彼は物語の最重要部分を物語りに任せている。物語を信じているといってもいいかもしれない。彼は物語に自由な意思を与えている。つまりアーヴィングは決して物語の独裁者ではないのだ。
アーヴィングのこのバランス感覚の良さは賞賛せざるえない。一方で物語への力を行使しながら、もう一歩では物語に一定の、いや多大な信頼を寄せている。このバランス感覚こそ彼をして一流の小説家にしているのではないかと僕は思う。
そういう意味でやはり彼はレスリングの選手なのだと僕は思う。どんなスポーツであれ、バランス感覚ほど重要なものはないのだから。
後日談:その日同じくアーヴィングの講演に居合わせた小説家のマーサ・コーリィーは「面白い話だったけど、一番最後の文章から書き始めるなんて私は信じないわね」、と冗談交じりに言っていました。僕も今冷静に考えると、やっぱりちょっと信じがたいと思う・・・。
場所はマンハッタンのヒルトンホテル。AWP(Association of Writers & Writers Program)の年一回のカンファレンスが今年はニューヨークで開かれ、僕もその協会の会員として参加させてもらった。
Adelphi University創作学科のディレクターで詩人でもあるジュディース・バウメル(ジュディーのことは個人的に知っているけれど、すごく素敵な女性です)に紹介されて壇上に上がったアーヴィングは、あの『ガープの世界』を出版した時の写真同様、シャツの上からでもわかるがっしりとした体つきをしていて、顔には、僕なんかにはとてもとても不可能なくらいの、自信の表情を浮かべていた。初めて彼の写真を見た時も思ったけれど、今でも彼は小説家というよりはレスリングの選手に見えた。ガープの頃より幾分皺が増えて、白髪頭になってはいたけれど、それはやはり驚くべきことだと思う。なんといってもあれから30年も経っているのだ。
アーヴィングは幾つかの決まり文句と、冗談で聴衆を笑わせた後、自分は一番最後の文章から小説を書き始めると言った。物語の行き着く先を決め、あるいは物語のゴールに標準を合わせながら、彼は物語る。そのようにしてアーヴィングは自分の小説を自分のコントロール下に置くのだ。
何年か前にアーヴィングのインタビュー記事を読んだ時、この人はなんて頑固で融通の利かない作家なんだろうと思った。作品からそんな印象を受けたことは全くないけれど、それでも自分の小説を自分のコントロール下に置こうとする彼の頑なな姿勢には少々辟易させられたのを覚えている。僕は個人的に小説を自分のコントロール下に置くなどというのは、おこがましいことだと思っていた。三島由紀夫という作家を僕は基本的に読まないのだけれど、大学受験で出題された彼のエッセイのことはよく覚えている。そのエッセイで三島は何故自分が推理小説を好まないかということを書いていた。三島によれば推理小説家はエンディングありきで小説を書き始める。しかし小説家というのは登場人物に性格を与え、場面に流れを生み出し、その後はストーリーに身を任せなければならないということだった。小説家が自分のできること全てを行えば、後は小説そのものが作家をその小説の行き着くべき場所まで導いてくれるという論だ。その後、こちらは敬愛する、村上春樹がインタビューで、自分の書く物語がその後どういう展開をするのか分からずに、自分自身読者のような立場で小説を書くというのを読んで以来、僕は小説家の力よりも小説そのものの力を少々ステレオタイプ的に信じるようになっていた。つまり物語のイニシアチブを取るのは物語そのもので、小説家ではないと信じていた。
村上春樹のインタビューを読むと、『ねじまき鳥クロニクル』を書き始めたとき、彼の頭にあったのは、物語の始まりのイメージでしかなかったことが分かる。そしてそれこそが物語の始まり方だと頑なに信じていた僕にとって、アーヴィングの話は衝撃的ですらあった。頑固であったのはアーヴィングではなく僕のほうだったのだ(もちろんアーヴィングだって相当頑固だと思うけど)。物語の発生のしかたに決まりなどはない。自分の小説の最後の一説が実際の小説の中でどのように機能しているか、自分の小説の例に挙げながら話すアーヴィングを前に、僕は少々圧倒されてしまった。
そしてアーヴィングは彼が本当に一流の作家だと確信させるような話をしてくれた。例えば『ガープ』ならば作品の半ばまで、ガープかあるいはその母親ジェニーかどちらが物語の主人公になるか分からなかったというのだ。仮に作家が自分の物語を自分のコントロール下に置きたいと望むならば、主人公が誰になるか分からないはずがない、というのがごく一般的な意見ではないだろうか。そしてアーヴィングはそのコントロールへの固執が人一倍強い作家なのだ。しかし彼はそんな重要なことも決めないまま小説を書く。物語をコントロール下に置こうとしながらも、そしてそのために多大な労力を払いながらも、彼は物語の最重要部分を物語りに任せている。物語を信じているといってもいいかもしれない。彼は物語に自由な意思を与えている。つまりアーヴィングは決して物語の独裁者ではないのだ。
アーヴィングのこのバランス感覚の良さは賞賛せざるえない。一方で物語への力を行使しながら、もう一歩では物語に一定の、いや多大な信頼を寄せている。このバランス感覚こそ彼をして一流の小説家にしているのではないかと僕は思う。
そういう意味でやはり彼はレスリングの選手なのだと僕は思う。どんなスポーツであれ、バランス感覚ほど重要なものはないのだから。
後日談:その日同じくアーヴィングの講演に居合わせた小説家のマーサ・コーリィーは「面白い話だったけど、一番最後の文章から書き始めるなんて私は信じないわね」、と冗談交じりに言っていました。僕も今冷静に考えると、やっぱりちょっと信じがたいと思う・・・。
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