ヴァルター・ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』の中に、パウル・クレーの「新しい天使」(このブログの写真に使わせてもらっている絵です)という絵に寄せた素晴らしい文章がある。僕の訳なので幾分その素晴らしさが色褪せてしまいますが、以下がその文章。
クレーの「新しい天使」と名づけられた絵画がある。ある天使がじっと見つめている何ものからか動き去ろうとしているかのような絵だ。彼の目は一点に集中され、その口は開かれ、その翼は広げられている。これこそ我々が歴史の天使として認知するものだ。彼の顔は過去に向けられている。我々が物事の連鎖を見るところに、彼は一つのカタストローフを見る。それは残骸を残骸の上に積み重ね上げ、彼の足元へと投げつけられているのだ。天使はそこに留まり、死者を、そして破壊された全てのものを甦らせたいのだろう。しかし強風が楽園から吹きつけている。それは彼の翼を暴力的に捕らえ、そのせいで天使はその翼を閉じることも敵わない。この強風は抵抗する余地もなく、彼の背中の向こうにある未来へと彼を推し進めている。そしてその一方で、彼の目の前に広がる残骸の山は高くなるばかりだ。この強風こそ我々が前進と呼ぶものなのだ。
我々の前進の背後には忘却され、破棄され、死へと追いやられたものの残骸が堆く積み上げられている。クレーの天使はその残骸を甦らせようとする歴史の天使なのだ。彼は過ぎ去り、朽ち果てたものを見捨てることができず、その再生を望んでいる。しかし歴史の天使をもってしてもそれは敵わない。彼にすら、いや彼にこそ前進という名の強風が吹き付けられ、彼にはそこに、つまりは過去に、留まることが出来ないのだ。彼は傷ついているように見える。泣いているようにも見える。クレーの絵は、そしてベンヤミンの文章は、前進(ある訳者は英語でいうこのprogressという単語を「進歩」と訳している)の持つ悲劇的な二面性を暴露している。
僕はこのベンヤミンの文章を初めて読んだとき、ある他の一文を思い出した。それはあの有名な『グレート・ギャツビー』の最後を飾る一文である。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(村上春樹訳)
フィッツジェラルドによるこの名文は「新しい天使」とは正反対のアイデアを示し、そして呼応している。天使は未来へと流されながら過去へと目を向けている。その反対に「我々」は過去へ流されながら前へ、未来へ向かっている。僕はこの相反する両者の関係を、「天使」と「我々」の類型の差とは考えるべきでないと思う。つまり、過去を見つめながら未来へと推されてしまう天使という類型と、未来を見つめながら過去へと戻されそうになってしまう我々という類型の差とは考えるべきではない。少なくともそこにばかり注目すると、この二つのアイデアが示す興味深い共通点を見逃してしまう。それよりも注目すべきは、この両者が共有する「停滞」の感覚なのだ。
この両者が共有するのは、自らの意思とそれを阻む大きな力との間で生じる、身動きの取れない停滞の感覚なのである。天使もそして我々も、過去へ戻ることも未来へ向かうことも「上手に」はできない。それを阻む大きな流れに逆らいながら、天使も我々も留まりたい場所や向かいたい場所を見つめているのだ。だからそれは天使と我々の不器用さの暴露でもある。
前へも後ろへも進むことが出来ないという感覚は、あるいはそれは器用にこなすことが出来ないという感覚は、僕たちを絶望と苦悩へと追いやると言ったらあまりに陳腐かもしれない。しかしその停滞と不器用さの感覚から二つの全く陳腐ではない素晴らしい作品が生まれていることは、大きな意味があることのように僕には思える。

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