先日ジョン・アーヴィングに会う機会があった。といっても、彼にとって僕は何百人もの聴衆の一人にしかすぎなかったわけだけれど。それでも僕にとっては長い間愛読してきた作家との、大げさに言えば、出会いだった。そしてそれはとても素敵な体験でした。
場所はマンハッタンのヒルトンホテル。AWP(Association of Writers & Writers Program)の年一回のカンファレンスが今年はニューヨークで開かれ、僕もその協会の会員として参加させてもらった。
Adelphi University創作学科のディレクターで詩人でもあるジュディース・バウメル(ジュディーのことは個人的に知っているけれど、すごく素敵な女性です)に紹介されて壇上に上がったアーヴィングは、あの『ガープの世界』を出版した時の写真同様、シャツの上からでもわかるがっしりとした体つきをしていて、顔には、僕なんかにはとてもとても不可能なくらいの、自信の表情を浮かべていた。初めて彼の写真を見た時も思ったけれど、今でも彼は小説家というよりはレスリングの選手に見えた。ガープの頃より幾分皺が増えて、白髪頭になってはいたけれど、それはやはり驚くべきことだと思う。なんといってもあれから30年も経っているのだ。
アーヴィングは幾つかの決まり文句と、冗談で聴衆を笑わせた後、自分は一番最後の文章から小説を書き始めると言った。物語の行き着く先を決め、あるいは物語のゴールに標準を合わせながら、彼は物語る。そのようにしてアーヴィングは自分の小説を自分のコントロール下に置くのだ。
何年か前にアーヴィングのインタビュー記事を読んだ時、この人はなんて頑固で融通の利かない作家なんだろうと思った。作品からそんな印象を受けたことは全くないけれど、それでも自分の小説を自分のコントロール下に置こうとする彼の頑なな姿勢には少々辟易させられたのを覚えている。僕は個人的に小説を自分のコントロール下に置くなどというのは、おこがましいことだと思っていた。三島由紀夫という作家を僕は基本的に読まないのだけれど、大学受験で出題された彼のエッセイのことはよく覚えている。そのエッセイで三島は何故自分が推理小説を好まないかということを書いていた。三島によれば推理小説家はエンディングありきで小説を書き始める。しかし小説家というのは登場人物に性格を与え、場面に流れを生み出し、その後はストーリーに身を任せなければならないということだった。小説家が自分のできること全てを行えば、後は小説そのものが作家をその小説の行き着くべき場所まで導いてくれるという論だ。その後、こちらは敬愛する、村上春樹がインタビューで、自分の書く物語がその後どういう展開をするのか分からずに、自分自身読者のような立場で小説を書くというのを読んで以来、僕は小説家の力よりも小説そのものの力を少々ステレオタイプ的に信じるようになっていた。つまり物語のイニシアチブを取るのは物語そのもので、小説家ではないと信じていた。
村上春樹のインタビューを読むと、『ねじまき鳥クロニクル』を書き始めたとき、彼の頭にあったのは、物語の始まりのイメージでしかなかったことが分かる。そしてそれこそが物語の始まり方だと頑なに信じていた僕にとって、アーヴィングの話は衝撃的ですらあった。頑固であったのはアーヴィングではなく僕のほうだったのだ(もちろんアーヴィングだって相当頑固だと思うけど)。物語の発生のしかたに決まりなどはない。自分の小説の最後の一説が実際の小説の中でどのように機能しているか、自分の小説の例に挙げながら話すアーヴィングを前に、僕は少々圧倒されてしまった。
そしてアーヴィングは彼が本当に一流の作家だと確信させるような話をしてくれた。例えば『ガープ』ならば作品の半ばまで、ガープかあるいはその母親ジェニーかどちらが物語の主人公になるか分からなかったというのだ。仮に作家が自分の物語を自分のコントロール下に置きたいと望むならば、主人公が誰になるか分からないはずがない、というのがごく一般的な意見ではないだろうか。そしてアーヴィングはそのコントロールへの固執が人一倍強い作家なのだ。しかし彼はそんな重要なことも決めないまま小説を書く。物語をコントロール下に置こうとしながらも、そしてそのために多大な労力を払いながらも、彼は物語の最重要部分を物語りに任せている。物語を信じているといってもいいかもしれない。彼は物語に自由な意思を与えている。つまりアーヴィングは決して物語の独裁者ではないのだ。
アーヴィングのこのバランス感覚の良さは賞賛せざるえない。一方で物語への力を行使しながら、もう一歩では物語に一定の、いや多大な信頼を寄せている。このバランス感覚こそ彼をして一流の小説家にしているのではないかと僕は思う。
そういう意味でやはり彼はレスリングの選手なのだと僕は思う。どんなスポーツであれ、バランス感覚ほど重要なものはないのだから。
後日談:その日同じくアーヴィングの講演に居合わせた小説家のマーサ・コーリィーは「面白い話だったけど、一番最後の文章から書き始めるなんて私は信じないわね」、と冗談交じりに言っていました。僕も今冷静に考えると、やっぱりちょっと信じがたいと思う・・・。

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