2008年3月6日木曜日

マリー・カポネグロのものすごい短篇『スター・カフェ』

 マリー・カポネグロという作家の『スター・カフェ』という短篇を読んだ。この人はたぶん日本では全く知られていないし、アメリカでもそれほど知名度のある人じゃない。それでもこの『スター・カフェ』といいう小説はすごかった。ショックを受けるような小説に出会う経験というのはとても貴重だけれど、貴重である分その頻度も多くはない。村上春樹はどこかでアーヴィングの『ガープの世界』や『ホテル・ニューハンプシャー』を称して「直下型地震」のような衝撃を与える小説と書いていたけれど、この『スター・カフェ』もそのぐらいの衝撃がある。ジョン・ホークスが言うように、extraordinary(ものすごい)という形容がぴったりだと思う。
 この小説は、例えるならばカポーティの『ミリアム』をもっともっと内的、外的に複雑にして、それを病的なまでのエロチズムで仕上げたような、かなりの問題作。この小説世界にすんなりと入って行くのはほぼ不可能と思われるほど実験的な小説です。でもそれがただの実験に終わっていないのがすごいところで、カポネグロはエレガントなまでにこの小説を完成させている。並みの作家が同じようなことをやろうとしたら、なんとなく力技のようになってしまって、わざとらしさが目立ちそうなものだけど、彼女の小説からはそういった力みが感じられない。この辺はオースターの初期作品あたりを思い浮かばせる。
 例えば、主人公のキャロルが、鏡で四方を囲まれた部屋の中でその鏡の中の男とセックスをするシーンがある。男はただ鏡の中に存在するだけで、鏡の外側に、鏡のリフレクションの対象としては存在しない。ここは安易な要約が不可能な、多義的に膨れ上がるとても優れた場面なのだけれど、この場面は多くの読者はとても居心地が悪くしてしまうのではないかと思う。ポイントはその居心地の悪さが不快なものではにこと。それは深い内省を促すような不思議な居心地の悪さなのです。
 僕たちが描写的な文章を読むとき、恐らく誰もが無意識にその場面のイメージをビジョンとして頭に浮かべているのではないかと思う。でも『スター・カフェ』の前述のシーンは完全にそれを拒否している。一人の女性がベッドの上で、鏡の中にしか存在しない男とセックスしているシーンを僕たちはどのようにビジョン化すればよいのだろうか?さらに言うと、鏡という概念、存在は常に視覚の概念と関係づいているために、読書は常にそのシーンのビジョン化の誘惑に突き動かされる。そしてそれは常に拒否されるのだ。このシーンだけではない。この短篇はとてもフィジカルでありながら、同時にコンセプチュアルでもある。その小説世界に絡みとられたとき、読者はとても不思議な居心地の悪さに襲われる。
 詩にエクフレーシズという、簡単に言うと、視覚世界を言語に置き換えるジャンルがあるように、もともと視覚と言語は切り離せないな共犯関係にある。カポネグロのこの『スター・カフェ』という短篇はその関係の反省的な認識を促しているように思える。その精密に作り上げられた言語世界は情景の描写の様でありながら、実は言語そのもの描写とも言えるかもしれない。それは言うならば、肉体化した言語の世界だ。
 僕がここで触れたのはこの短篇の一つの側面に過ぎません。これは突っ込みどころが満載の本当にものすごい小説で、性や自己認識のあり方をとても丁寧に扱った中身の濃い、抜群に優れた作品だと思う。
 いつか日本にも紹介されたらいいと思うけど、この小説の翻訳はかなり難しいだろうな・・・。

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