夏目漱石の『こころ』は言わずと知れた必読書であり、日本文学の名作中の名作と言って差し支えないだろう。教科書等にも多く取り上げられ、ほとんどの日本人は読んだことがあるのではないかと思う。その『こころ』を久しぶりに読んでみて、ふと不思議に思ったことがある。その名作の導入部は実は、誤解を恐れずに言うならば、ものすごく奇異だ。
『こころ』の導入部は語り手と「先生」との出会いの場面だ。場所は鎌倉。夏で、二人とも海水浴にやってきている。語り手と先生はその鎌倉で出会うのであるが、漱石が与えたその二人の出会いの場面には実はかなりの無理がある。語り手はまだ大学生、彼は毎日のように浜辺で見かけた先生の姿を見守っている。大学生ほどの年齢の男性が、一人の中年の男を毎日のように目で追うのは、それだけで考えてみると、かなり奇妙で不自然だ。一般的な大学生であれば、他に目が行くところはいくらでもある(つまり彼の周りには多くの女性海水浴客がいるはずなのだ)。つまり、それは少々歪んだ同性愛とも解釈しかれない。しかし、この導入部ではそのような解釈が入る余地がない。より正確にいうならば、漱石はそのような解釈がなされないような手立てをしっかりとうっている。
漱石は「先生」以外の海水浴客をただの「黒い頭」として、しかもそれを二度も強調して、読者の目がいく対象から故意に外している。つまり先生以外の海水浴客を不特定多数とすることで、語り手に映る先生の存在を際立たせているのだ。さらに漱石は「先生」が西洋人と一緒にいたという設定を作り、語り手の目が先生に注がれる奇異さを軽減している。しかしながら、鎌倉の海水浴場で一人の若い男性が中年を過ぎた男性を何日間にも渡って目で追うのは不自然であることには変わりない。漱石はそのような不自然さ、奇異さを通り越しても語り手が先生を求める、あるいは求めてしまう姿をこの導入部ではっきりとさせておきたかったのであろう。
だがこの導入部は語り手の先生への興味関心だけでは済まされない。つまり語り手の先生に対する興味関心だけではなく、先生の語り手に対する姿勢をこの小説の導入部は多く示唆している。もちろん、漱石は小説の全体を通して先生の語り手に心を許さない姿を表現し、それは導入部でも変わりはない。しかしこの導入部では同時に先生が「私」を求めている姿も見て取れる。事実関係だけで言っても語り手である「私」に最初に話しかけたのは先生である。もちろんそれだけではない。先生が語り手を求める姿はより能弁に表現されている。この小説が語り手「私」の一人称単数のパースペクティブで書かれているため気づきにくいが、いくら同じ海水浴場とはいえ、この二人が毎日のように遭遇するのはおかしい。なにしろそこには無数の「黒い頭」が存在しているのだ。特定の二人が、毎日のように偶然に出会うことは考えづらい。つまりこの二人の邂逅は、「私」が先生を探しているからだけではなくて、先生が「私」を探しているからこそ起こりうるのだ。
先生こそ誰か語る相手を求めている。誰か信頼できる相手を求めている。だからこそ二人は海水浴場で出会い続けるのだ。そしてその二人の「孤独」はその後に起こる悲劇をすでに予知させるものでもある。

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