2008年12月26日金曜日

軍服とタキシード

 最近久しぶりにトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を読んだ。ピンチョンを最後に読んで5年は経っているのではないかと思う。前回読んだ時はただ単に苦行をしているような気分ですらあったけれど、今回はちょっと違った。もちろん彼の作品はタフだし、特に英語の原文で読む場合にはかなりの集中力がいる。でもあの読感はやっぱり彼独特だ。ちょっと他では味わえない。彼の小説を読むときは、緊張するし体力を使う。僕が学部生の時、文献講読のゼミでフィヒテの『全知識学の基礎』を読んでいた。その時先生が「フィヒテを読むためには読むほうもそれなりの準備がいる。読むほうもテンションを挙げて、ある意味ではハイにならないと彼にはついていけない」と言っていたけれど、ピンチョンについても同じようなことが言えると思う。ベッドに横になってとか、地下鉄での移動中にとかでは彼の世界には着いていけない。しっかり椅子に座って、なんなら読む前にニンニクを何粒か食べて、鼻息を荒く読むのがピンチョンだ。彼は僕に完全装備の軍服を思い起こさせる。彼の小説は武装している。彼の洞察と知識、それと文学的意図で完全武装している。とてもマッチョな小説だ。それを読み込むのは骨が折れる。読後には独特の疲労感が残る。それは勝負の決闘の疲労だ。読者は完全武装の軍人と一対一でやり合わなければならない。だからこそ読後感は他に変えがたい。もちろん初読ですべてがクリアーになんてならないし、頭の中が?で一杯になったっておかしくない。でも読後に腹の奥に残るズシッとした重量感はピンチョンならではだ。
 それを考えると、やっぱりポール・オースターという人はポストモダニスト(こういう用語はあまり好きではないのだけれど便宜的に)としてとても異質なんだなぁと思う。『幽霊たち』のあとがきで柴田元幸さんがオースターを「エレガントな前衛」と称していたけど、本当にそれは稀なことなのだと思い知った。オースターの作品はとても洗練されているし、セクシーさすらある。ピンチョンが完全武装の軍服だとしたら、オースターはパリッとしたタキシードだ。彼の作品には一目で魅了されてしまう。読者(仮に女性の読者だとして)は彼の小説とアッパー・イーストあたりのパーティで出会って、そのセクシーさに打たれ、一緒にマティーニを啜りながら会話を楽しみ、家に帰ってからも素敵な小説だったと思い出に浸るかもしれない。読者にそういった経験をさせるのは間違いなくオースターの魅力の一つだ。でもそれだけがオースター作品の全貌ではない。他の読者はパーティの後、彼の小説と夜を共にするかもしれない。そこで彼女はそのタキシードを少しずつ脱がすだろう。そうするとそのタキシードの下で、彼が武装しているのに気づく。彼女はその知識と洞察、文学的意図を目撃し、体験するだろう。オースター小説を読むという行為は、だからセックスをするのと似ている。読後には高揚感があり、疲労があり、そして痛みが残る。これはやっぱりオースターならではだ。
 というような話をアメリカ人女性の友人に話したら、「私は個人的にタキシードより軍服のほうがセクシーだと思うわ」と言われた。この感覚はアメリカ人と日本人と差かなと思っていたけれど、なるほどよくよく考えてみると、戦時の軍服ではなくて正装としての軍服はエレガントですよね。でもピンチョンの場合はもろ戦時の軍服で、顔に泥を塗って、体中に弾薬を巻きつけているイメージです。そういうのはさすがにセクシーとは言いませんよね?

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