2008年4月2日水曜日

カート・ヴォネガットの死から1年経って

 カート・ヴォネガットが死んでからもうすぐ1年になる。それは2007年の4月11日で、彼は84歳だった。作家の死というものを一読者がどのように受け止めるべきなのか僕にはよく分からない。でもその死は僕が受け止めた最初の愛読する現役作家の死で、やっぱり僕はショックを受けたし、誤解を恐れずに言うと、興奮すらした。あれほど偉大な作家も死ぬのだ、それも僕が生きている間に。僕が愛読する多くの作家は僕が読み始めた頃には死んでいるか、あるいはまだ現役で作品を発表し続けている。ヴォネガットは掛け値なしに最高の作家で、もちろん作品と作家とは区別して論じられるべきだけれど、それでもそれは一人の偉大なる者の死だった。僕はその時代に立ち会ったのだ。それは今考えても興奮する出来事だと思う。 でもその興奮の原因は僕という偶然的個人に帰するところであって、例えばサガンなんかが死んだ時は僕はそれほど大きな感慨は抱かなかった。
 正直に言うとヴォネガットの後期作品にはそれほど僕は魅力を感じない。だけれど、彼がそのキャリアを確立させた前期作品はそれを補って余りある。いや、本当に最高なんです。特に『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』の二作品には小説の素晴らしさの全てが詰まっていると僕は信じている。彼の作品を多く翻訳している浅倉久志は『タイタンの妖女』のあとがきにヴォネガットについてこんなことを書いている。

 とても話上手なおじさんが、とぼけた口調で面白おかしい物語を聞かせてくれます。どうしようもないほどバカな人間たちの演じる、時にはグロテスクで、時には悲しく、時には美しい、しかしつねに滑稽である物語です。腹をかかえて笑いころげながら、聴き手はいつのまにかしんみりとなにかを考えさせられてしまいます。おじさんは、この世界で人間たちのやらかしているバカな行いに、腹が立って、悲しくてならないけれども、それでいて、そんな人間たちが大好きなのです。(中略)どうしようもなくバカな人間たちの姿を時には誇張したり、時にはいたわりでくるんだりした滑稽な作り話で、聴き手を笑わせながら、その笑いをつうじて、聴き手の心に、ほんの束の間でもいい、人間どうしのつながり、思いやり、といったものがかきたてられたら、とねがっている―

 ヴォネガットの作品の素晴らしい点は、彼の宇宙的に広がる途方もない想像力とニヒリステッィシュな視点、愛すべきユーモアのセンス、そして人間への優しき視線の絶妙な融合とバランスにある。彼の創出する世界はいつも絶望的でありながら、暖かな優しさに包まれている。浅倉久志が言うとおり、読者はその世界に絡め取られながら、不思議な安堵感を覚える、僕たちはバカでどうしようもないけれどそれは間違ったことじゃないんだ、そんな風に感じる。僕たちの存在は小さくて小さくて、どうしようもないぐらい意味がないんだということを確信させられながら、同時にそれでもいいんだと感じさせられる。それは決して人間の愚かしさの、小ささの肯定ではない、赦しなのだ。とてもとても優しい赦しなのだ。ヴォネガットのどうしようもない魅力はそこにある。少なくとも僕はそこに魅了されるし、強く心が締め付けられる思いをする。
 そのヴォネガットが死んでもうすぐ1年が経つ。そして僕は今でも彼の死に対してどのような感想を抱けば良いのか分からないでいる。それでも僕は彼が幾つもの素晴らしい作品を残してくれたことに、極めて個人的に、感謝している。そしていつか彼の作品についてまとまった論文か何かを書ければと願っている。きっとそれはニヒリズムとキリスト教批判の視点からニーチェと彼の関係を追及するものになるだろうけれど、実はそれは彼の作品を楽しむ上で何の意味もないことも分かっている。それを分かっていながら何か恩返しがしたい、僕はこの1年ヴォネガットに対して常々そう思ってきた。
 僕はこれからも彼の作品を何度も再読することになると思う。その度に彼は僕を笑わせてくれるだろうし、赦してくれるだろう。本来作家と読者の関係なんてものには何の意味もない。でもいつかヴォネガットに会えたら言ってみたい言葉が僕には一つある。
 ピース。

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